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ほら、にっこり笑って――
突然、知らない女性の声が頭の中に響いた。
敬子は少し戸惑ったが、その声に励まされるように、微笑みながら飲み終わったティーカップをリビングルームから台所へと運んだ。
「そろそろ帰らないと夕飯の支度があるんじゃない?」
話に夢中になっていた絵理菜は、はっとしたようにソファから立ち上がると、「敬子先輩、今日は美味しいランチをご馳走になりありがとうございました」と、ぺこりと頭を下げた。
「二人のドタバタ旅行の話には大笑いしたわ。お土産もありがとう。また来てね」
敬子はサンダルをつっかけて玄関のドアを開けた。
「はい。遼平さんの仕事が落ち着いたら今度こそ一緒にお邪魔します」
絵理菜は三つ下の会社の後輩だった。裏表のない性格で、少し天然なところがあるが、なぜか馬が合って、時々仕事終わりに二人で食事に行ったりもした。
ある日、敬子と絵理菜が行きつけの居酒屋で食事をしていると、たまたま同期の遼平が店に入ってきた。
「遼平! こっちで一緒にどう?」
敬子は声を弾ませた。三人は食べて飲んで大いに笑った。
遼平は本来口数が少ない。そんな遼平が、絵理菜を笑わせようと一生懸命ジョークを飛ばしているのを見た時、敬子の胸の奥で何かがキクンと音を立てた。
それから程なくして、敬子は遼平と絵理菜に呼び出された。
「俺たち、付き合うことになったんだ」
社内恋愛なので周りには秘密だが、敬子にだけは知っておいて欲しいと打ち明けられた。
「おめでとう!」
絵理菜が口に出す遼平の呼び名が「遠山先輩」から「遼平さん」に変わり一年がたった頃、彼女は結婚を機に会社を退職した。
今日は、新婚旅行のイタリアから帰ってきた二人が、お土産を渡しに敬子のマンションを訪れる予定になっていた。しかし、遼平は急な仕事で来られなくなった。
よく頑張ったわね――
また声がした。敬子は誘われるようにお土産の入った紙袋に手を伸ばした。
中には、ベネチアンマスクが入っていた。ゴールドとホワイトを基調にした装飾には気品が漂っていた。
以前、何かで読んだ気がする。確かこのマスクはコロンビーナという名前で、喜劇女優がつけるものだと……。
敬子はそっとマスクを自分の顔に当ててみた。
もう我慢しなくていいのよ— —
敬子の耳元でマスクが囁いた。目元を縁取るラインストーンが、まるで涙の雫のように輝いて、今にも泣き出しそうに震えていた。
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