夢見る王女

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夢見る王女

【1】  その日は私にとって、最高の一日になるはずだった。  追いかけている作家の新刊が発売され、さらにはずっと待ち望んだゲームの発売日でもあった。  雨は降っていたけど、天気雨だ。狐の嫁入りなんて洒落た名前のついたその現象に、むしろ心が躍っていたくらいだ。  だから家に帰ったとき、母がベランダに立っていてもどこか楽観的だったと思う。 「どうしたの?」  少しずつ暖かくなってきているとはいえ季節はまだ春で、時刻は17時頃。雨に濡れて平気な気温ではないし、下手をすれば風邪をひいてしまうかもしれない。だから早く中に入らないと。その程度の認識だった。  よく考えれば、母が家にいるのはおかしいことに気づけたはずだった。  父と母は共に仕事人間で、二人の帰りは早くても18時を過ぎる。それにそもそもその日、母は帰りに寄るところがあると言っていた。  あるいは私が小説の主人公であれば、母の異変に気付いて母を助けられたかもしれない。しかし現実は不可逆であり、小説ともゲームとも違う。 「お母さん?」  私がもう一度声をかけると、母はようやく顔だけでこちらを振り返る。その顔は酷くやつれていて、困ったように笑っていた。そして、 「あまね、ごめんね」  たった一言の謝罪。これが、母の最期の言葉だった。  母は再び顔を外へと戻し、ベランダから身を乗り出して―― 「え?」  そのまま夕日の中へと消えていった。  なにがおきたの? ていうか、なんで? なんであんなことしたの? タワーマンションの17階から飛び降りて生存できる確率って――?  取り留めない思考が頭を埋め尽くし、混乱だけを抱えてとにかく走った。  突き当たり。降下ボタンを押す。2台あるエレベーターはどちらも1階にあった。  それでも多分待った方が早かったはずだけれど、冷静でなくなっていた私はそれを待っていられなくて階段を駆け下りた。  足がもつれ、胸が苦しい。何度も転びそうになりながら、なんとか母のもとへとたどり着く。  腕と足があり得ない方向へと曲がり、頭部は半分陥没し、夥しい量の出血。  遠めに見ただけで、母がどうなってしまったのかが分かった。近づけば、息もしていない。頭では理解している。  母は既に、事切れている。  しかし私は、その事実を受け入れられなかった。 「救急車を……」  なぜ走りながら呼んでおかなかったのか。後悔は後だ。119。震える手では、たった3桁の入力もままならない。  数度の修正を経てようやくコールボタンを押そうとして、画面が突如切り替わる。  ――着信。父だった。  私は反射的に通話を繋いだ。 「お母さんが!」  私が開口一番にそう叫ぶと、父は沈痛な声音で言った。 「ごめん。僕のせいだ」  え……?  頭が真っ白になった。 「どういうこと……?」  困惑から出た言葉を、もう一度繰り返す。今度は怒りをぶつけるために。 「どういうこと⁉ お父さん、なにしたの⁉」 「母さんはどうなった」  父の平坦な声に苛立ちがこみ上げる。お母さんは…… 「ベランダから、飛び降りて……」  それが、お父さんのせい……? 「っ……そうか。そうじゃないかと、思ってた」 「だったら!」  だったらどうして、止めに来なかったんだ――  そう叫ぼうとして、私は母の傍にへたり込んだ。  だめだ、私は冷静じゃない。父と母の夫婦仲は、娘の私からみても良好に見えた。もしかしたら私のいないのところで何か大きな問題を抱えていたのだろうか。だとしても、母が自殺するようなことになる問題とはなんだ。  ……もしかして、浮気だろうか。  いや、それはない。  父も母も、決して強い人間ではなかった。  だからこそ誰かを傷つけることを極端に嫌い、そんな二人だから仲睦まじくいられたのだ。確かに父が浮気なんてすれば母は酷く傷ついただろう。だけど、そうなることが分かりきっているのに父が浮気なんてするはずがない。でも、じゃあ…… 「なにがあったの……?」  私は涙を流れるままに任せながら、そうつぶやいた。  そして返ってきた言葉は、私が想像したどんな可能性とも違っていた。 「僕は今日、人を殺した」  夜がやってきた。  微かに残っていた夕日の残滓が完全に消え、世界は闇に包まれる。  明るい時間は心躍る天気雨も、暗くなってしまえばただ冷たいだけだった。 【2】  なぜ父が人を殺すに至ったのか。その経緯を、父は電話越しに、静かに語った。  結論から言えば、父は人を殺していなかった。  しかし父は、殺人の現行犯で逮捕されたのだという。  ……つまり、冤罪だった。  犯行の瞬間を見られたわけではない(そもそもやっていないのだから当然だ)らしいから、準現行犯逮捕ということになるだろう。  準現行犯逮捕であれば、父を犯人だと誤認するに至るなんらかの証拠があったことになる。だが父は、誤認なんかじゃないと言った。誤認ではなく、嵌められたのだと。  父は、政治家だった。  とはいえ、そう大きなことをしていたわけではない。数多いる地方議員の一人だ。だが父は一度目の当選からこれまでずっと議員としてあり続け、地域に根ざした政策を、時間をかけて堅実に提案し実現してきた。それはひとえに、父の誠実さによるものだと思う。  そしてそんな父を、私は心から尊敬していた。  父の転機となったのは、3年前、現知事を支持・補佐する幹部の一人となったことだろう。  旧友である現知事の立候補に際して父が共に行ったのは、政敵を蹴落とすのではなくただひたすらに自派閥の誠実さを訴えるというシンプルなものだった。  だが、それが意外にも支持を得た。  支持を得られたのにはきっと、様々な要因があったのだろう。そしてその中には、父が長年に渡って築き上げてきた信頼も、少なからず含まれていたはずだと、私は思っている。  そうして旧友は見事に当選を果たし、父は以降、幹部として知事となった旧友を献身的に補佐してきた。  そして今日。  父は、その知事に嵌められたのだ。  動機は、父にはわからないそうだ。  ただ、知事はここ半年ほど、次の選挙に向けてかなり無理をしていたという。対抗派閥から強力な候補者が擁立されるとの噂で、知事は再選のため、かなり際どいこともやっていたらしい。そして父は、折に触れてそれを咎め、諌めていた。 『そのことで、邪魔に思われていたのかもしれない』  父はただ、そう言っていた。  父は今日、知事から大事な話があると事務所に呼び出されていた。  父が事務所を訪れたとき、まず入口の付近にナイフが落ちていた。血はついていなかったため、父はあまり深く考えずそれを拾った。しかし、それは間違いだった。さらに中へ進むと、そこには血だらけで倒れる男性がいた。その男性とは、対立派閥が擁立すると噂されていた人物だった。  近くには、父が最近知事に貸したハンカチが落ちていて、そのハンカチには血を拭った跡。  瞬間、父は悟った。自分は嵌められたのだと。  直後、後ろから声がした。 『警察だ! 武器を捨てろ!』  父は殺人の現行犯で逮捕され、そのまま連行された。  警察に通報したのは、知事だった。  その後、どういうわけか私には連絡が来ず、母にだけ連絡がいった。多分、手を回されていたんだろう。  母は父の逮捕を知り面会を求めたが、逮捕後72時間は家族との面会を禁じられる。そして母は、知事の元を訪ねた。  知事が母に何を言ったのかは、分からない。とにかく、母はそこで決定的な何かを告げられて、命を絶った。  父は弁護士を呼び、家族に電話をする許可だけをなんとか得て、監視のもと電話をしたらしい。  そこまで話を聞いて、制限時間が来た。  父は最後に、『すまない』とだけ言って、通話を切った。  なにも分からない。分からないことだらけだった。  ただ現実してあるのは、父が逮捕され、母が自殺したという事実のみ。  父の言い分が通るとは思えない。  知事は秘書と共にいたというアリバイをでっち上げており、対して父にはアリバイがない。凶器には父の指紋だけ。血を拭ったハンカチも父のもの。現場には父だけがいて、目撃者もいる。……状況証拠が揃いすぎていた。  私はそれでも、父の言い分を信じた。  私はリュックを背負ったまま、県庁へ向かった。知事に会って、どうするかは考えていない。そもそも会えるのかすらも分からない。だけどとにかく、走った。走って、走った。そしてその道中、  私は車に轢かれた。  車から降りてきたのは、見覚えのある顔。間違いない、こいつだ。  顔面を蒼白にして呆然と私を見下ろすこの男こそ、父を陥れ、母を自殺に追いやった知事その人だった。  轢かれたのは、信号のない交差点。完全に私の飛び出しではあったが、それでも停止義務があるのは向こうだ。少なくとも、もう知事は続けられまい。  ざまぁ見ろ。  言葉に出そうとして、代わりに出たのは血の塊だった。  あぁ、私、死ぬんだ。  まるで舞台の緞帳がおりていくように、ゆっくりと意識が薄れていく。  ……もし生まれ変わるなら、今度は、冤罪なんてない世界がいいな。  リュックから飛び出してきたのだろう。目の前には、買ったばかりの探偵小説と、RPGのケース。  それらを読めず、プレイできなかったことに一抹の心残りを感じながら、私は意識を手放した。 【3】 「リーリア様、大丈夫ですか?」  イマジカがそう声をかけると、彼女の目の前でたった今までうなされていた女がゆっくりと目を覚ました。 「イマジカ?」  寝ぼけ眼で上体を起こし小首を傾げる女は、この国の王女。彼女の持つ傾国の美貌も、寝起きばかりはほんの少しだけ鳴りを潜める。 「うなされていましたよ」  イマジカが言うと、王女は肩をすくめた。 「あぁ、またいつもの夢を見ていたのよ。手をかけたわね」  王女はときおりこうして、悪魔にうなされることがある。イマジカはその度、王女のそばで手を握り続けるのだ。  最初はうなされ始めた時点で起こすことを進言したのだが、それは禁じられた。かわりに、暫く手を握ってから声をかけて欲しいとお願いされたのだ。 「そろそろどんな内容なのか教えて下さってもいいのでは?」  不躾だとは思いつつも、あまりに酷い内容ならやはり起こした方がいいのではないか。そう思って内容を聞いてみるのだが、 「その時が来たら教えてあげるから、今は我慢なさい」  王女はいつも、こうしてはぐらかすばかりだった。イマジカは「はぁ」と小さくため息をついて、王女に手を差し出す。 「まあいいんですがね。……それでは、今日も」 「ええ、一緒に踊りましょう」  王女は、探偵と踊る。  二人の夢を、叶えるため。すなわち、この国から、冤罪という名の不条理をなくすために。  幼い頃から頭抜けた才を発揮して、探偵制度を作り上げた稀代の王女。  彼女が転生者だと知るものは、まだいない。
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