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<1・導入>
もはや自分で、自分の衝動を止めることができなかった。まだ花が差さったままの花瓶を持ち上げ、思い切り床に叩きつける。白い花弁が散り、透明なガラスが粉々に砕け散った。ぴりり、と痛みを感じる指先。見れば、飛び散った破片で切ったのか、僅かに血が滲んでいる。
――私、何をしてるんだっけ。
一瞬だけ、我に返った。床に散らばる硝子の破片には、髪を振り乱した鬼の形相の女の姿。まだ一応は二十代であるはずなのに、その鬼気迫り窶れた姿は随分と年老いて見えた。醜い姿。みっともない姿。自分は何をしているのか、と奥底に眠らせたもう一人の自分が問いかけてくる。
――何をしているのか?……そんなのもう、自分でもよくわからない。
声がする。耳元で声が。囁く声が。このままでは貴女は幸せになれないわ、と優しく歌うように自分に告げるのだ。
そうだ、自分は何も間違ってなどいない。
これは、幸せになるために必要な行為。この家にある“良くないもの”を追い出すためには、ひたすら家にあるものを壊して回らなければいけないのだ。悪いもの、が染み付いたものを使い続けていれば、自分も悪いものに染まってしまう。そして、どんどん不運を家の中に呼び込んでしまうのだ。
それを断ち切るためには、多少強引であろうと手段は選んでいられないのである。ひたすら壊して、壊して、壊して、壊して回らなければ。それがあの人と結婚した時に気に入って買ってもらった大事な花瓶でも。あの人が、具合が悪い自分を気遣って活けてくれたお気に入りの花であっても。この状況から、苦しみから脱するためにはこうする以外に術はないのである。
――そう、他に、それ以上に大事なものなんて、ない。
花弁をスリッパの裏で踏みにじりながら、思う。もう、この白い花の名前も思い出せない。頭の中に赤い靄がかかったよう。募るのは、焦燥ばかりだ。
――壊さなきゃ、壊さなきゃ、壊さなきゃ。でないと、私は救われない!
食器棚を乱暴に開け、中の皿を強引に引っ張り出す。壁に一枚ずつ投げつけ、叩き割り始めた。可愛らしいうさぎのマスコットがついた大皿も、水色の花がらの醤油皿も、それらの直撃を浴びた受話器も吹っ飛び、砕け散り、あるいは歪んでいく。
少しでも大きな音を立てなければいけない。そうすれば、この悪い夢も何もかも怯えて逃げていくはず――だから。
「何してるんだ、早苗っ!」
飛び込んできた誰かに腕を掴まれた時、思ったことは一つであったのだ。
ああ、この人も悪魔に違いない。
自分が生き延びるために――殺さなければ、と。
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