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序章
僕の、最初の記憶は、母の声から始まった。
「俊雄が男の子に生まれて、本当によかった。本当に……」
実感のこもった母の声は震えていた。赤ん坊の僕の顔をそっと撫でる手は冷たく、頬をなぞる長い指は僕の首あたりを移動し、踊るようになぞっている。
このまま指に力をこめれば、無力な赤ん坊はひとたまりもないだろう。
「…………」
母は青ざめた唇をうごめかせて、鼻をすすった。
憂いを帯びた瞳に映る赤ん坊の僕――【狆くしゃ】と評された容貌に我が子の将来を憂いていた。
「男の子でよかった。男の子で」
呪文のように母は唱える。我が子の性別が男であることを、ただ唯一の幸運だと信じて。我が子の将来が明るいことであることを信じて。この時点で殺さないことが最良だと彼女は信じたいのだ。
母は失敗した。
後々のことを考えれば、彼女は僕をここで殺すべきだった。
死の概念がまだあいまいな赤ん坊の僕は、死の恐怖を感じることなく、眠るように死んでくれたはずだ。
「大丈夫よ、守るから。お母さんがきっと守るから」
我が子に向ける殺意を上書きするかのように、母は自分の決意を言葉にする。
しかし、悲しいかな、僕は母に守られた記憶がない。
一応、世間一般的で平均的な母親の義務を彼女は果たしてきた。が、学校でイジメられる危機に際し、危機的状況を切り拓いてきたのは僕の方だった。
母が自発的に僕を守ったことは、僕の記憶の中では一度もない。
「きっと守るから」
やさしい言葉がやがて、陶酔の色を帯びてきたのを赤ん坊の僕は知っている。母は嫌悪ではなく、哀れみの視線を僕に向けて自分の言葉に酔い始める。
人の不幸は蜜の味であり。母は僕の不幸を蜜の味として認識したようだ。
極上の不幸に舌をしめらせて、彼女は僕を殺すことを諦めた。
こうして僕は殺人鬼となり、やがて自分の親を手にかけることを彼女は知らない。
僕は今、タイのバンコクで生活している。パスポートはコロナ禍で生活費に困っていたタイの留学生から買い取り、罪が発覚する前にバンコクのスクムウィットにあるアパートの一室をおさえた。
「はぁ」
ため息をつく。傷だらけのフローリングに体を横たえて、窓からみえる青空を眺めながら、顔面を走る痛みにじっとたえる。
包帯だらけの全身は痛みで悲鳴を上げて、思考が現在と過去をでたらめに行き来する。まるで高熱をだしたときにみる夢のように。
本来なら入院すべき状態なのに、僕は潜伏先のアパートにもどってサナギのように床にへばりつき、鎮痛剤の効き目が発揮されるのをただただ待っている。
ザッ……。ザッ……。ザッ……。
廊下から足音が聞こえてくる。規則正しく決然としたその音は、しっかりとした意志が感じられた。
ザッ……。ザッ……。ザッ……。
止まった空間を震わせるように廊下の床を靴が叩く。はやる気持ちを抑えるような、爆発しそうな激情を叩きつけるような、やるせない気持ちが足音から伝わってくる――そんな想像を働かせるのは、僕が罪人だからだろう。
ザッ……。ザッ……。ザッ。
やがて足音が止まる。止まった場所は僕の部屋の前だ。身動きが取れない僕は戦慄する。
過去が追ってきた。日本で積み重ねた罪を断罪しに、誰かが僕を追ってきたのだ。
コンコン……。心臓が爆発しそうになった。部屋に響く控えめなノックの音に悲鳴をあげそうになった。
落ち着け、と頭が混乱する心をなだめた。手術の痛みと異国にいる状況が、普段の僕の判断力を奪っているのだ、と。
いつも通りにやれば問題ない。そうだろう?
いつも通りだ。足音は一人。体は動かないが口は動く。一対一の交渉事は僕の得意分野だろ? 大丈夫だ、乗り切ることが出来る。
「おい、杉藤いるんだろっ!」
ノックの主がドア越しから僕を呼ぶ。男の声だ。ハリがありどこか低い声の感じから年齢は30代ぐらい、僕と同年代か少し上ぐらいか。
よし。と、立ち上がろうとする。
下手に居留守を使ってやり過ごそうとすれば、次はアパートの管理人などを複数人連れてくるだろう。複数人対一の構図。それだけは避けなければならない。
腹に力を入れて立ち上がろうとすると、頭の中で光が明滅するのを感じた。
ちかちかと黄色い光が僕の眼前にフラッシュバックする。
指にかんじたへし折れた首の感触。涎を垂らしてぽかりと開いた口からは、夜よりも暗い闇が広がっていた。
「わたしを選んでくれてありがとう」
脳裡によみがえる最愛の声。
葛西 真由――僕の婚約者であり、僕が初めて殺した人。
初めて人を殺した。僕がプロポーズしたクリスマスの日だった。彼女を家に招きプロポーズの了承をもらえば、年始にはお互いの家族をオシャレなお店によんで、お互いを紹介しようと話し合っていた。
愛していたのに。
日を追うごとに腐敗する死体の変化に驚嘆し、処理するのに苦労したのが遠い過去のように感じられた。
これは、なんだ……。
むせかえる血の香りに息が窒息しそうになる。バカなありえない。バンコクに来てから人はまだ殺していない。
あるはずのない血の香りに狼狽し、視界がぐらつくのを感じた。
「――っ! ――っ!」
ドンドンッ。ドアのノックが乱暴になり、向こう側の声が罵声に変わる。
はやく、はやく、出なければ。
だが体がいうことを聞かず、視界が徐々に赤く閉ざされていく。
体の内側からなにかが忍びより、僕に死臭を吹きかけてくる存在。まるで死者たちが復讐しようと蘇ってきたような。
「うっ……」
突如、痛みが脳天をついた。電流の如く体中を駆け巡る激痛が、立ち上がろうとする僕のひざを挫き、体が無様に床に転がる。
痛い、痛い、痛いっ……。
痛みにのたうちながら、のたうつ衝撃に痛みが倍増する。全身を乱反射する痛みに身をくねらせて、陸にうちあげられた魚のように口が開閉した。
包帯が解けて床に散らかっていく、殴りつけるノック音が徐々に収まり、舌打ちとともに足音が遠ざかっていく。
しまった。
絶体絶命。そんな言葉が心臓をぎゅっと掴んだ。全身傷だらけのこの状態で逃げるのはかなりの悪手だ。
声の主の男は、僕が「杉藤」だと分かっていた。コロナ禍の状況で、タイのバンコクまで訪ねてきた強い意志。断罪の予感に僕は怯える。
終わったという絶望感が、ゆるやかに全身に広がった。
もう、これで。
ようやく効いてきた鎮痛剤が、猛烈な眠気を連れて僕の意識をからめとる。
次に目覚める時、僕はどうなっているのだろうか。
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