幼少期_3

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幼少期_3

「……うぐぅっ」  沈黙を先に破ったのは大川くんの方だった。手からモップが落ち、苦し気に体を「く」の字に曲げて地面に膝をつき、そのまま地面に反吐(へど)を吐いた。 「げええええええぇっ」  決壊した川のように勢いよく吐き出された吐しゃ物。吐き出された黄色い汁がびしゃびしゃ地面に跳ね返り、大川くんの丸い顔に降りかかる。  あまりのことに僕は固まった。  呆然としていると、大川くんの吐いた吐しゃ物の中に、お昼の時間に食べた給食のグリンピースがあるのを見つけて、粘液まみれでてらてらと光る緑色に、胃の中がむかむかするのを感じた。 「だ、だいじょうぶ?」  やや遅れて声をかけると、大川君が大きく手を振ってこれ以上こさせまいと抵抗する。 「くるな、くるな」  先ほどとは打って変わって弱々しい声だった。憎悪できらめいていた黒い瞳には淀んだ影が落ちて、眼と鼻から涙と鼻水が垂れ流されている。  この時の幼い僕は、自分がどれほど醜い存在なのか、本当の意味で理解していなかった。  僕は醜い。あとで知ったけど、歴代の杉藤顔の中でも、特に群を抜いて顔がぐちゃぐちゃに歪んでいる。  まるで特撮に登場する怪人のように、醜悪さを極める僕の顔。そんな顔の持ち主が顔を赤くして、精一杯の笑顔を浮かべて「友達になろう」と、言ってきたのだ。  物置の薄暗さも相まって、とても不気味で、グロテスクで、衝撃的な絵図らだったのが、大人になった今なら想像できる。  大人の僕は思い出して、大川くんに同情した。  幼い僕が無自覚に彼に対してしてしまったことは、ヘビー級ボクサーに鳩尾(みぞおち)を思いっきり殴られたことに等しい。 ――っだ!  立ち上がった大川くんは、素早く落としたモップを回収すると、機敏な動きで物置の扉をしめた。  かしゃん、かつん、と。扉がしまるのと同時に、硬いなにかが当たる音が空間にこだました。  僕は閉じ込められた――予想は半分当たった。当初の予想では、逃げ出せないように、しつように痛めつけられて閉じ込められる。と、ふんでいたのだが、ほぼ無傷の状態で閉じ込められた。 「……」  僕は一応、モップが当たった額の部分に手を当ててみる。指先でなぞると、すこしひりついたが額は切れていなかった。  モップをつっかえ棒代わりにしたのかな。  必死にここから逃げる、大川くんの背中を想像しながら、その場に座り込んだ。コンテナ式の物置小屋は、当然ながら窓なんてなく、密閉された暗闇に僕は取り残された。  暗闇に目が慣れてくると、大川くんの置き土産が目についた。すっかり変わり果てた今日の給食が、今や酸っぱくて生温かい匂いを漂わせて、その存在を誇示している。  グリンピースいっぱいの卵チャーハン。切ったトマト。キクラゲのスープに、ニンジンのグラッセとレタスサラダ。  思い出して、もそもそチャーハンを咀嚼していた数時間前が、ひどく遠くにかんじた。  いつも心のどこかで、これからどうなるのかという、形のない不安が頭を占めていた。大人たちの笑顔を見るたびに苦い思いを感じて、母の顔を見るたびに、薄い氷の上を歩かされている気分になった。  いつ爆発するか分からない爆弾に怯えながら、全方位に神経を集中させて自分を押し殺し続ける日々。  炸裂した悪意の爆弾は、僕が思ったよりも僕にダメージを与えることなく、思いがけない発見を僕にもたらしてくれた。  締め切った誰もいない暗闇の中は、月のない夜闇よりも暗く深く、そしてとても懐かしい。  なんだろう。今、すっごく気分が良い。  これが自由だと僕は知った。アニメやテレビでよく言われる、孤独や寂しさなんて感じない。むしろ、解放感とともにごっそりと自分の中でなにかが欠落して身軽になった感覚があった。  わかりやすく例えるなら、今まで背負っていた重たい荷物を降ろした気分に近い。  僕はとても安らいだ。全身が心地よく緩み、なにもいない暗闇に、ひやりとした確かな感触にすべてを委ねたくなった。 「……くっく、ふぅ」  思わず変な声が出る。思いっきりのびをして、大の字になって寝転ぶと、鼻や口にたくさん空気が入ってきた。 「すう、はぁ」  無機質で静かな空気を僕は()む。肺が活発に機能して、新鮮な空気が体中にいきわたっていく。大川くんの置き土産の匂いなんて気にならない。  たっぷりと深く呼吸して、僕の体はまるで一つの心臓になったように、規則正しくどくどくと音を刻む。  誰もいない空間。僕を見る瞳がない、一人しかいない自由。のびのびとした快適さに、このまま外に出る事なんて出来なくなる。  ようやく見つけた、僕が居たいと願った場所。  ここに住みたい。誰もいないここにいたい。  それは、いけないことなのだろうか。  僕はだらしなく、ごろごろ寝転がりながら一人の時間を堪能した。  外でなにが起ころうが、本当にどうでもよかった。  大人たちが必死で僕を探しているかもしれない。  幼稚園の先生が責められて、平謝りしているのかもしれない。  他の園児たちは突然のことで不安がっているのかもしれない。  僕と友達になりたくない大川くんは、僕を外に出さないようにひたすら黙っているのかもしれない。  様々な想像が、炭酸の泡のようにプチプチと浮かび上がっては消えていき、僕はうとうととその場で寝てしまった。  本当に、もったいないことをしてしまった。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆  幸せな時間は、あっという間に過ぎてしまった。  目が覚めたら病院のベッドであり、僕のお腹のあたりで、母親が泣いて突っ伏しているのが見えた。    母さん。  幸せな夢の余韻が消えていく。目の前の現実は、冷たくて絶対的で、僕の逸脱を決して許すことはない。  母の後頭部の、花のように広がっているつむじを見ながら、僕は身を起こした。 「ここは……?」  寝ぼけた風を装って起きると、母が顔を上げて涙で濡れた顔を僕に見せる。 「病院よ、俊雄。もう大丈夫だからね」  そう言う母の、爆発しそうな空気に、いたたまれないような息苦しさを覚えた。 「先生たちがね、あなたがいないことに気づいて、すぐに探してくれたの」  母の説明を総合すると、昼寝の時間を終えて、僕がいないことに気づいた先生たちが、園内に設置されている監視カメラで、僕がどこに行ったのか探したらしい。  監視カメラにはしっかりと、僕と僕を引きずるように歩く大川くんの姿がしっかり記録されていた。  しかも、盗難防止の為に物置小屋の中にも監視カメラが仕掛けられていたのだ。その監視カメラには大川くんが、僕を突き飛ばしてモップで殴ろうとした映像もしっかり収められていた。  物置小屋から助け出された時に、額が切れていないのは確認できたが、当たったらしき部分が赤くなっていたので、念の為に僕は入院することになったらしい。  他にも様々な説明があったが、幼い僕はそれどころではなかった。  物置小屋にも監視カメラが仕掛けられてきた。  そのことに、意識がすべて持っていかれた。  もう、母の嘆きも親としての表明も耳に入らない。  知りたくなかった。  僕が見つけた居場所は、僕の望んだ居場所ではなかった。  綿雲の上に乗っかったようなふわふわ気持ちが、収束にしぼんで、ぐしゃりと音を立てて潰れてしまった。鼻の奥に塩辛くて湿った感じから、僕は自分が泣いていることをぼんやりと自覚する。  目から流れる熱い液体は透明だったが、僕にとってはぐしゃりと潰されてしまった、黒色に近い赤い――心の血だった。 「俊雄、ごめんね。怖かったわよね」  僕の涙を勘違いした母は僕を抱き寄せる。母のブラウスの滑らかですべすべとした感触と、胸の柔らかさを頬で受けて、目をつぶり、頭の中であの安らぎに満ちた暗闇を再現しようとする。  冷たく、無機質で、懐かしい、誰もいない闇の中を。  僕が存在して、そこにいても良い場所を。  大川くんのことなんて、些末なことだ。  幼い僕は考えたくなかった。  監視カメラを通じて、大人たちが大の字で寝転ぶ僕の姿を。大人たちが、素の僕の姿をみて、どんな感想を抱くのかを考えるだけで苦しくなった。  まるで自分の一部を、知らないうちに切り取られてしまったような痛みがあった。切り取られた一部は、料理のように好きなように加工されて、それぞれの好きな味付けを加えられて、美味しく咀嚼される。  そう考えると、静かな怒りが小さな体に満ちていくのを感じた。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆  ざぁっと、外で、音が広がっていくのが聞こえた。  窓を叩き、四方へ弾ける水音から、雨が降っているのだろう。  だけど、今の僕にとっては、フライパンで肉を焼いている時の音そのものだった。  母が僕を抱きしめる腕の力が強くなる。雨音から僕を守るように強く、針金の如くしばりつける力。  伝わってくる母の鼓動の音は、規則正しくて、音楽のように美しくて吐き気がした。  雨の音、母の心臓の音、浅く不安定な僕の呼吸の音。  目を閉じても聞こえる不協和音は、薄暗いキッチンの調理風景を僕に想像させる。  僕の一部が切り取られ、肉色のソレがひき肉になり、香ばしいハーブと塩コショウを振りかけられて、すりおろした生姜とにんにく、しょうゆを加えられて、ビニール袋に包まれた清潔な手で丁寧に、時には乱暴にこねくりまわされる。  ぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ。  空気を入れて(虚言をいれて)。  粘りがつくまで(尾鰭をつけて)。  だけどこねすぎないように(やりすぎないように)。  隣にあるコンロには、油が引かれたフライパンが音を立てて、僕の肉が来るのを、じゅうじゅうと悲鳴をあげながら、今か今かと待っている。  やがて、こねくり回すのに満足した手が、肉を成形してフライパンに乗せた。じゅわじゅわと、しゅうゆの良い香りをさせる肉塊から、ほとばしる透明な汁が流れ出て柔らかな音をたてて焦げていく。  降り注ぐ雨音と似た音を立てて、灼熱のフライパンの上で美味しく焼けていくハンバーグ。  あぁ、おいしそうだろう――僕の恥部は。  許さない。絶対、ゆるさない。 ……あの時の、幼い僕の内側に生じた、嵐のように荒れ狂う黒い衝動。大人の僕に言わせると、衝動の正体は殺意だった。  目をつぶっているにも関わらず、視界が白くちらちらと明滅し、不規則な呼吸に熱がこもっていく。  体中の血が沸騰して、僕の体から溢れ出す硫黄に似た鼻を突く悪臭。人間は強い怒りを覚えると、強い匂いを発するのだと、この時知った。 「あぁ、お風呂に入らないとね。あんな所に閉じ込められたんだから、仕方がないわね」  匂いに気づいて身をはなした母が、僕に優しく語りかける。この異臭が物置小屋の匂いだと決めつけて、家から持ってきたタオルをベッドの横にある棚から取り出した。 「………」  目をあけた僕は黙り込んで、自分の中に起こった衝動にじっと耐える。  まわりのものを手あたり次第投げつけて、無茶苦茶にして、奇声を上げて、暴れまわり、目の前の母をも害してしまいたい――強烈な怒り。  表に出さないように、白いシーツの端をぎゅっと握りしめて、強く強くビンの蓋をしめるようにぐるぐる自分の心を締め上げる。  この怒りをぶつけるのは、ここではない。  そして、荒れ狂う内側に言い聞かせる。  ぶつける相手は母ではないと。
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