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メッセージプレート
「送別会のケーキだけど、君に任せるよ」
朝、チーフは厨房に入ってくるなり言った。
これは面倒なことになった。僕は残業続きのぼうっとする頭で考えた。
「困ります。今月は卒業式や送別会で繁忙期でしょう。三浦さんの送別会に出すケーキには手が回りません」
僕の返事に、チーフはいかつい顔を曇らせた。
「それくらいしてやらなきゃ、三浦さんはムードメーカーとして四年も頑張ってくれたんだから」
ムードメーカとして、主におしゃべりをね、と僕は思った。
春の日差しを背に、ドアを開けてパティシエたちがドアを開けてちらほら出勤し始めていた。僕たちは声のトーンを落とした。
「やっぱり僕がお別れのケーキを作るのは変ですよ。彼女とはそんなに親しくありませんから」
二年前、雇われたばかりの僕が抗議すると、チーフは即答した。
「親しくないから、あえて、さ」
その口調は皮肉っぽく、どこか咎める風だった。僕は内心舌打ちをした。チーフは、管理職にありがちな、協調性を第一とする性質だ。それが僕の個人主義の性質と、時折衝突を起こすのだった。
「おはようございます」
髪を明るく染めた小さな頭が僕の後ろを通り過ぎた。三浦さん、とチーフの表情が明るくなる。彼は僕に、ケーキの件は上司命令だから、と言って彼女の後を追った。僕は持っていた皿拭き用のタオルを作業台に叩くように置いた。
ここは大きな菓子店なので、厨房は広く、パティシエの数も多い。それでも、三浦さんの挨拶は毎朝大きく、よく通った。彼女の、おはよう、の笑顔に誰もが顔を晴れやかにして挨拶を返した。
「次の就職先、見つかったかい」
チーフが尋ねると三浦さんは
「全然。つい昨日まで息子の受験で手一杯だったんですもん」
「そうか、で、結果は?」
三浦さんは笑顔でピーズサインを作り、合格、と返す。チーフはこれにおおっ、と大袈裟な反応で喜んだ。
「どうしたの」
「三浦さんの息子さん、合格したって」
二人のやりとりを聞いて、皆が三浦さんの周りに集まっていく。僕は内心の不機嫌を出さないように気をつけながら、一人でパフェ用のアイスクリームをラップに包んで冷凍庫に入れていく。
「進学校っていっても、まぐれで受かっただけ。滑り込みよ」
そう言いながら華やいだ彼女の高い声が耳に刺さる。彼女を取り巻く周り声も相待って、集中力が乱される。仕事は静かにしたい。この二年間、何度そう思ったことか。
始業の時間になり、厨房は慌ただしく作業する音が響き始めた。
私は自分の持ち場で、デコレーションの準備を始めた。焼き上がったスポンジ生地に生クリームを塗って苺やメロンのフルーツを飾っていく。その間も彼女のお喋りは止まない。
「前に言った、あのお店、この間行ってみたけど結構いい感じでさ…」
「ちょっと見てよ。この生地、焦げ目が顔みたい」
「そういえば、昨日うちの猫が…」
マスクの下で喋り続けながら仕事をする彼女の手は、的確で素早い。仕事ができて笑顔が美しく、その上話術で皆を楽しませるのだから、彼女を悪く言う人はいない。ただ僕だけが、三浦さんを囲む人の輪に入れず孤立していた。そして、前回の面談でチーフにこう言われたことを思い出す。
「君はもっと、皆とコミュニケーションをとろう」
無駄話をせす、真面目に仕事をしているだけじゃないか。それの何が悪いと言うんだ。
思い出した怒りで注意が疎かになり、機械的に盛り付けをしていると、後ろから声が飛んだ。
「そこ、フランボワーズじゃない。下のクリームから塗り直さなきゃ」
そう僕に言ったのは三浦さんだった。ミスをした。気がついて全身の血管が縮む思いがする。苛つきを抑えられず、僕は思わず吐き捨てるように言った。
「分かってます」
一瞬、厨房が静まる。刺すような沈黙は、まるで針のむしろだ。次の瞬間には皆、自分の作業に戻っていた。それでも僕には、後ろで誰かがため息をつくのが聞こえた。
僕は動悸が速いまま、スポンジ生地に生クリームを塗り直していった。
不公平だ、と思った。確かに自分は新人で、周りより技術では劣っているかもしれない。社会に出たばかりで、周りにうまく合わせられないこともある。それでも、みんなに追いつこうと努力して、一番遅くまで働いている。それなのに、そんなに彼女ばかり評価しなくてもいいじゃないか。
僕の目に涙がにじむ。残業続きの疲れのせいだ。僕は三浦さんから顔を背け、しばらくぼやけた視界のまま作業を続けた。
終業時間が過ぎた後で、僕は送別会のケーキ作りに取り掛かった。静かな厨房で一人、生地を混ぜたり焼いたりしていると、よくない考えが頭をよぎる。今日は最悪な日だった。最悪な気分の原因である三浦さんのためにケーキなんて作りたくない。デコレーションの器具を出す手が重くなる。彼女も、僕からのケーキなど喜ばないに違いない。今日のように、また皆が微妙な雰囲気になるのでは、と不安になる。
僕はため息をついた。こう言うときは気持ちを切り替えるしかない。職場の送別会とはいえ、ケーキ作りを任されるのは初めてだ。努力の成果を見せるときだ。そう考えるとやる気が湧いてきた。僕は再び手を動かしてケーキ作りを再開した。
深夜を過ぎて、出来上がったのはショートケーキだ。クリームと苺の伝統的なものだが、デコレーションは優雅で繊細だ。出来上がりに満足した僕は、あやうく最後の仕上げを忘れるところだった。ケーキに乗せるメッセージプレートがなければ完璧な送別会のケーキとはいえない。
グラシン紙を巻いたコルネにバタークリームをつめ、小さなビターチョコレートの板に向かう。そこで僕は、なんと書いたらいいのかわからず迷ってしまった。
「今までありがとうございました」、「これからも頑張ってください」。何を書いても、彼女と僕の間では空々しく響いてしまうのではないか。そんな気がした。そしていつの間にか、三浦さんと働いた時間を思い返していた。
日々の出来事をおかしく話す彼女の様子や、厨房へのクレームの電話に、謝っていた横顔のこと。そしてそっぽを向いて仕事をする僕を含む、彼女を囲んでいる皆のこと。
三浦さんと会うことは二度となくなるんだ。意固地になるんじゃなかった。彼女ともっと話しておけばよかった。僕の胸に後悔が押し寄せる。
やるせなくなって、僕はメッセージプレートに、「お疲れ様でした」とだけ書いた。その気持ちに嘘はなかった。
送別会の日、ケーキを見た三浦さんはいつもの笑顔を見せた。彼女はデコレーションよりもメッセージプレートをまじまじと見ていた。
皆がケーキにひとしきり感想を言った後で、ケーキが切り分けられた。三浦さんにケーキの乗った皿が渡された。
彼女はまっさきに「お疲れ様でした」と書かれたプレートをつまんだ。そして真ん中から真っ二つに割ってしまった。
やはり、僕のことを怒っている。
凍りついた僕に彼女は、割った片方のメッセージプレートをほら、と差し出した。そしていつもの明るい笑顔でこう言う。
「あなたも、お疲れ様だったわね」
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