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結局ホテルにたどり着いた時には彼女はバスタブにもたれかけ、既に息絶えていた。
あの時、昨夜ディナーの席ではいつもの様にうだつの上がらない俺の態度に落胆した彼女は、吐き捨てる様に帰国の予定を告げていた。だが最後に感じた違和感、手付かずの冷えたサーロインの前でナプキンで隠した彼女の綻ぶ口元が示す死の覚悟に俺は気付くべきだったのだ。
『間に合わなかったね』
血の水面に浮かぶ九本の赤黒い薔薇は薬指の指輪を外せなかった俺を責めている。
愛していなかった訳では無い。ただ平穏な結婚生活を捨ててまで彼女を選ぶ勇気が無かっただけ。
「すまない」
再び届かぬ言葉をかけた。
『いいの 間に合ったから』
声が聞こえた。
咄嗟的に身体を寄せ、彼女の口元に耳をそばだてた。呼吸はやはり無い。奇妙な出来事に眉を顰めたその瞬間、
「グゥッ」
突然俺の身体を襲った恐ろしい異変に呻き声をあげた。
呼吸、呼吸が出来ない!
喉を締め付ける激痛に耐えきれず彼女を乱暴に突き落とし床に蹲った。
コトンと彼女のポケットから転がり落ちた小さな薬瓶が俺の目の前で回転を止める。
やられた。
ここ最近裏社会で出回っている猛毒の薬品名が謀の全てを物語った。
揮発性の強い毒はバスタブの湯の中に仕込めば時限爆弾的に俺に届く。薔薇の意味を感傷的に悩む間があれば充分だ。彼女は何処かで手に入れた毒を使い自分自身を囮にした。
不安になる事に疲れたの
だけど一人で逝くのは嫌なの
目蓋を閉じた暗闇の中で彼女の心憂い幻が浮かび上がり、鮮血が白薔薇の色を染め九本の花言葉のメッセージを完成させてゆく。
眩い陽光に溢れるバスルーム。
暖かい水蒸気に拡散するプリズムはシュロの葉と淡い青磁色のタイルに反射した輪廻の粒子を煌めかせる。
『ずっと一緒にいたいの』
願いが叶った彼女の頭上から降り注ぐ淡いミントグリーンの霧雨──美しき最後の幕は静かに降りた。
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