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1 櫂
「櫂? 泣いてんの?」
突然そう声をかけられ、俺は椅子から飛び上がりそうになった。
振り返って確認するまでもない。聞き慣れたこの声は匠海のものだ。
匠海は寮のルームメイトだ。だからこの部屋に入ってくるのは当然であり、本来驚くようなことではない。
それに、泣いてなんかいない。涙を流してはいない。かろうじて。
それなのに必要以上に露骨な反応をしてしまったのは、その声の主のことを思い浮かべていたからに他ならない。
「泣いてねえし」
懸命に取り繕ってそう答えた。机の上に広げたままの、見てもいないノートを無意味にめくる。振り返って顔を見る勇気はなかった。
俺が年上の彼女にふられたのは、つい二、三時間前のことだ。この春から大学四年生になった彼女とは就活とかゼミとかの口実で疎遠になりつつあったから、別離の予感はなんとなくあった。そんな中で今日突然「話したいことがあるから」と最寄りの駅へ呼び出された。寮住まいの高校生相手では物足りない。そんな言葉をある意味期待していた俺は、涙ながらに別れを告げる彼女を前に、言葉を失うことしか出来なかった。
茫然自失で寮に戻ってきたものの、彼女の言葉が頭の中でこだまし続けて、何時間もたった今でも脳裏から消えないでいる。
――あなたが見ているのは私じゃないでしょ。
彼女は気づいていた。
俺が彼女によく似た別の人物に恋い焦がれていたことを。
俺自身が目を逸らし続けていた事実を、彼女は見破り、俺に突きつけたのだ。
ははぁ、と笑い混じりの声が聞こえて我に返る。ちらりと見やると、匠海は自分のベッドにどさっと音を立てて寝転がりながら言った。
「ふられたんだろ」
ぎょっとして今度こそ振り返った。
笑っているのかと思ったが、匠海は笑っていなかった。それどころか、何故か感情の窺えない顔をしていた。
しかし、年上の彼女がいることは話していたものの、ふられたことはまだ誰にも打ち明けていない。
もっと言えば、寮に戻ってから誰とも会話をしていなかったのに、どうして――よりによって、匠海が知っているのだろう。
「……なんでわかるんだよ」
恐る恐る尋ねると、匠海は唇の端を少しだけ上げてみせた。
「お前のことならなんでもわかるんだよ、俺」
「……うそばっかり」
お前は何もわかってなんかいないよ。
そう言ってしまいたい衝動をどうにか堪える。
二段ベッドの下段で、匠海は布団の上に寝そべって腹の上で雑誌を広げている。
その表情を俺はそっと盗み見た。
くっきりとした二重まぶたの瞳、彫像のように印象深い鼻、他人の目を引く華やかな顔立ち……。
それは、ふられた彼女の面立ちとよく似ている。
いや、違う。彼女が、似ているのだ。
似ているとわかっていて、それでも気づいていないふりをしながら付き合っていたのだ。
自分が匠海に惹かれていることを自覚する勇気がないままに。
再び、彼女のあの声が頭の中で蘇る。
――あなたが見ているのは私じゃないでしょ。
その言葉に何も答えられなかったのは、図星だったから。
「櫂」
名前を呼ばれて我に返った。
雑誌を見ていたはずの匠海の視線がまっすぐにこちらを見つめている。
いやに真摯なその視線から逃れたくて目を逸らした時、先ほどまでの陽気な声とは別人のような、かすかなささやき声が聞こえた。
「大丈夫か?」
俺は絶句した。
そんなに優しいまなざしをして、そんなに優しい声をして。
まるで俺の本心が求めるものを、お前はわかっているみたいに。
高ぶる感情を懸命に押し殺し、彼に背を向けながらやっとの思いで言った。
「……大丈夫」
うそばっかり。ちっとも大丈夫じゃないくせに。
俺は口の中だけでそうつぶやくと、机の上に開きっぱなしの真っ白いノートに顔を向けた。
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