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「あ……兄……ちゃ」
言葉が出なかった。
白熱灯に照らされた廊下は、赤の世界だった。
鬼のような形相で、赤い包丁を握るお母さん。
後ろでは、お父さんが倒れていて。
血だらけのお兄ちゃんは私に向かって、もう一度「逃げろ」と叫んだ。
「あら、麻子、起きたの?」
不意にお母さんの顔から鬼が消えた。
笑顔で、一歩、また一歩と私に向かってくる。
「あんたも、一緒に行こうね」
ああ、私……死ぬんだ。
妙に冷静に自分の未来を受け止められた。
覚悟して目を閉じようとしたとき。
グシャッ!
目前でお母さんが倒れた。
「え……母さ……ん?」
手にしていた包丁で、自身を傷つけたのだろう。
うつ伏せで倒れた体の下から、赤い染みが広がっていく。
「麻、逃げ……ろ」
掠れた声はお兄ちゃんのもの。
お母さんの足にしがみつき、私を見つめている。
「いやだ……みんな死んじゃやだ」
そう、電話、救急車を呼ばなきゃ。
必死に振り返り、電話機に手を伸ばした瞬間。
背中に痛みが走った。
熱くて、息が出来なくて、血の匂いが気持ち悪くて……。
私に覆い被さるように抱きついた母さんが、耳元でささやいた。
「一緒に行こう」
薄れゆく意識のなか、その唇が赤よりも赤かったのだけは、鮮明に覚えている。
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