70人が本棚に入れています
本棚に追加
波乱のはじまり
俺、里見 亮太(さとみ りょうた)。システムエンジニア、25歳、男。
もう一度いう、男、25歳。俺は今、人生最大のモテ期にして、貞操の危機を迎えている。
++++
「・・・はぁ?あの・・・意味がわかりません」
「だから、転勤の辞令だって。お前、独身で身軽だろ。インドかアメリカ、どっちか選べ」
「やっぱり、おっしゃる意味がちょっと・・・」
「先月、叶が体調崩してインドから戻ってきたろ。代わりに誰かやらなきゃいけないの。あと、アメリカ本社からも、日本向けプロジェクトのコーディネーターに、1人寄こせと言われている」
俺の前で、上司の岳田が踏ん反り返っている。俺は今、one on oneと小洒落た名前のついた、要は週一の個人面談で、岳田から30分延々とダメ出しを喰らうという苦行の真っ最中だった。
岳田は、アメリカの大学院を出たとかで、不自由しない英語力(だけ)をウリに、俺達エンジニアのチーム・マネージャーをしている。
奴はパワハラが標準装備、技術屋泣かせの無茶振りで周りを翻弄し、みんなに等しく嫌われていた。
個人面談は毎回、話しがあちこちに飛び、あらゆる角度から俺はディスられ、最終的に岳田の自慢話を聞くというルーティーンだったが、今回は様子が違った。
「ったく、叶のやつ。入社当初から海外志向っていうから、チャンスをやったのに。あっさり逃げ帰って来やがって」
俺の脳裏に、先月インドからの帰国報告で会社に顔を出した叶先輩が浮かんだ。学生時代にバックパッカーだった先輩は、よく日焼けしてガタイが良かったはずだが、見る影もなく痩せ細り精気の抜けた顔をしていた。
結構仲が良かった俺が声を掛けると、先輩は弱々しく呟いた。
「亮太、インドは手強かったよ・・・。やっぱり日本はいいな・・・。俺は二度と海を渡らない・・。本当に大切なものは、自分の足元にあるんだっけな」
なんだか発言がポエムチックでカオスだった。常に理路整然とした、男気のある先輩だったのに。インドの何かが叶先輩を抜け殻にしてしまった。先輩はそれ以来、無期限の自主休暇に入っており、みんな気を遣って先輩の話題には触れない。俺は心底恐れ慄いた。
「い、インドはないです!アメリカでお願いします!!」
しまった、勢いこんで返事しちゃったよ。
「よし分かった。今から精々英語を磨けよ」
岳田が悪い顔でにやりと笑い、ぽんと何かをデスク越しに投げて寄越した。呆然としながら目を走らせると、某ラジオ局の英会話講座の教本が視界に映った。
あーーーっ、俺の馬鹿やろう!
英語は大の苦手なのに!!家族旅行だって、海外は必死で避けてきたのに!!!
俺の目の前に、2年前ハワイで挙式しようとした姉ちゃんの顔がチラつく。散々言い訳して参列を渋る俺に、姉は鬼の形相で呪いの言葉を吐いた。
「亮太!あんたなんか英語に溺れて、一生苦労すればいいのよ!!」
結局、その年世界中に流行った新種の風邪のせいで、海外渡航は全面禁止になり、姉は挙式をキャンセル。俺は九死に一生を得た。
「・・・姉ちゃんの呪い、半端ねぇ・・・」
辞令から3ヵ月後。鬱々と頭を抱え込んでいる間にも、会社の人事と法務はいい仕事をし、あれよあれよという間に航空券を握らされ、パスポートにスタンプが押され、俺は機上の人となったのである。
最初のコメントを投稿しよう!