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夏の夜
『リョータ、ちょっと話せないか?』
ドア越しに、リックが遠慮がちに呼び掛ける。
そうだ、気まずいからって逃げ回っていてもしかたがない。俺の黒歴史は今に始まったことじゃない。良く覚えてないけど、きっと俺は悪酔いしてリックにキスを強請ってしまったに違いない。
俺は覚悟を決めて、大きく息を吸い込んだ。きっと金髪イケメンにとって、野郎とキスしちまったなんて人生の汚点だろう。ここは、年上の俺が気を回して重い空気を払拭してやらねば。
そっとドアを開けると、長身の男がしょぼんと効果音がつきそうな姿で立っていた。筋肉質でいつも姿勢のよいリックが、肩を落として弱々しく見える。ラフなシャツとブラックジーンズは会社で見かけたままの格好で、どうやら今日はジムに寄らずに帰ってきたらしい。
俺は自分から会話の糸口を探ることにした。
『なぁ、リック。ごめんな』
『ん、リョータ?何を謝ってるんだ』
『えっーと、いろいろ。キスしたこととか』
『・・・日本人は、いやリョータは簡単に謝りすぎだ。俺達、お互いに謝るようなことはしてないだろ』
リックは少し不機嫌そうだった。イケメンが眉間に皺を寄せると迫力があるよ。でも、それってリック的に、あのキスは酔っ払いの戯れとして水に流せるものだってことか。なんだ、俺だけ変に意識して損した。
突然、ぐうぅと俺の腹が鳴る。リックが一瞬目を見張り、くくっと堪らず吹き出した。ああ、俺の腹、いい仕事するぜ。リックが楽しそうに笑うから、俺も釣られてへらりと笑ってしまった。
『リョータ、夕飯まだだろ?テイクアウトしてきたから、よかったら一緒に食べよう』
手を引かれて居間に入ると、ダイニングテーブルに俺のお気に入りのタイ料理が並んでいた。リックが冷えたビールを出してきてくれ、2人でぎこちなく乾杯する。香辛料のよい香りに、一気に食欲が掻き立てられる。甘みと酸味が程よいパパイヤサラダ、かりっと揚がったガーリックチキン、平べったい麺にタレの絡んだパッキーマオ。
『リック、ご飯ありがとう。とても美味しい』
『リョータが喜んでくれて、良かったよ』
ほっとしたようなリックが、蕩けるような笑顔で応える。お前とは食の好みもばっちり合うな。現金なもので、腹が膨れると気分も上がってきた。
汚れた皿を適当に水洗いして食洗機に突っ込んだあと、俺達はリビングのソファに移動した。開け放したベランダの窓から、夏の夜の涼しい風が入ってくる。リックがスマートホーム端末に話しかけると、スピーカーからエド・シーランの軽快で甘い歌声が流れてきた。リックはいつものようにウィスキーを啜り、俺はジントニックをちびちび飲む。
なんだか完璧な夜だ、とふと思った。俺は横暴な上司に突然アメリカに飛ばされて、言葉も習慣も違う中、無我夢中で仕事だけは穴を空けまいと足掻いてきた。別に繊細でも何でもない俺だが、最初の一ヵ月は口の中に口内炎が出来まくり、寝ている間に歯を食いしばるのか、朝起きると謎の頭痛と肩凝りに悩まされた。そんな毎日に、思えばリックが居てくれた。特に表立って何かする訳ではないが、一緒に飯を食って、寝る前にたわいもない話を辛抱強く、楽しげに聞いてくれた。
ああ、イケメンは行動もイケメンだぜ。突然の悟りに、俺は内心かなり動揺する。俺の同居人はイケメンすぎる。胸の奥が締め付けられるようにきゅうとして、戸惑う。
俺の横でリックは、かすかに唇に微笑みを浮かべ音楽に身を沈めている。質の良さそうなシャツの下で、厚い胸が静かに上下している。今日も俺達の距離は異様に近く、俺の左半身はリックに触れそうな近さで熱を感じる。その熱に、触れてみたいと思った。
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