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救出
もはや永遠に続くのかと思われた地下室での生活はしかし、ある日突然の終焉を迎えることとなった。
私はいつも通り、女にマスクをかぶせられ階上へと連れられていった。ところがまわりが急に騒がしくなり、何人かの怒鳴り声や物が割れるような大きな音が聞こえてきた。私は何者かにグイと腕を引かれてマスクを脱がされた。私の目に、まるで太陽を間近で直視したかのような、突き刺さるほどのまぶしい光が飛び込んできた。同時に、たくさんの人間や物が出す雑多で狂暴な音が、耳をおおわんばかりに私に襲いかかる。私は目の前の狂乱に耐えられず、両手で固く顔をおおった。
「もう大丈夫、大丈夫よジェシカ」
私は見知らぬ女の人に抱きしめられた。香水の匂い……ママに会いたい。私は突然、たまらなくママに会いたくなって大声で泣き叫んだ。
「ママ! ママ! ママ! たすけてママ、私はここよ!」
私がそんな大声を出すのは、ずいぶん久しぶりのことだった。暗闇の部屋に閉じ込められた当初は、助けを求めてあらんかぎりの大声を張り上げ、ドアや壁を、手から血がでるほど叩いて回った。しかしそれが何の意味もないことだと気づくと、すべてをあきらめ、自分の心からママの存在・元の生活の記憶をいっさい追い出していた。それは半ば無意識的に行われた。おそらく、自分自身の心を守るため、ある種の防御反応が働いたせいだろうと思う。いくら追い求めても手に入らないもののことを執拗に考えていたら、気がおかしくなってしまうだろうから。
「かわいそうに、ジェシカ。そうね、ママに会いたいわよね……かわいそうに……」
女の人は、私のことをさらに強く抱きしめながら泣いていた。部屋の明るさに目が少し慣れてきてよく見ると、女の人は警察の服を着ていた。
それから私は、その警察官らしき女性、彼女はママと同じぐらいの年齢の優しそうな人だった、の家に連れていかれて暖かいお風呂に入り、チキンスープとパンをもらって食べた。暗闇の部屋でも食事はしていたが、出来合いのハンバーガーやピザばかりだったので、お手製の料理を食べるのはずいぶん久し振りのことだった。デザートにはチョコレート味のアイスクリームを出してくれた。なんておいしいんだろう。女の人は無心に食べる私を見て、ニコニコと微笑んでいる。
「おかわりもあるわよ。たくさん食べてね」
しかし長いあいだ人とまともな交流をしていなかった私は、言葉がすんなりと出せなくなっていた。笑顔でお礼が言いたいのに、顔の筋肉も固まってしまったのか、表情がうまく作れない。私はあきらめて、無言で食べ進んだ。
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