花蘇芳の花冠を頂いて

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花蘇芳の花冠を頂いて

 私は高校二年の時に結婚した。結婚相手は、十歳年上の医者で、名前を秀一さんという。  秀一さんと出会ったのは、東京の高校に通うために地元から出て、生活費の足しにするためにやっていバイト先の本屋でのことだ。その本屋はそんなに大きくはないけれど、本の取り寄せを積極的にやっているところだったので、本好きの人だけでなく、学生さんも沢山利用するところだった。  その本屋に、秀一さんはよく通ってきていた。店員も少ないその本屋で、私が秀一さんの本の注文を受けることも少なくなかった。  秀一さんの注文する本をはじめて見た時、この人はこんなに難しい本を読むのだと、驚いた記憶が有る。その難しい本というのは、文学だとかそういったものではなく、聞いたこともない単語がタイトルに入った医学書だった。  そんな本を、秀一さんは何度も何度もあの本屋で注文した。その対応を何度もしているうちに、ぼんやりとだけれども、私の頭の中には医学的な単語が入ってきていた気がする。  医学書なら、都内にあるもっと大きな書店に行けば取り寄せせずに手に入りそうなのに。そう思ったけれども、気がつけば私は秀一さんの注文を受けるのが、彼に会うのが楽しみになっていた。取り寄せた本を渡して、お会計を済ませたあと、いつも微笑んでありがとう。とお礼を言ってくれる、そんな秀一さんに私は惹かれたのだ。  ある日のこと、私は思いきって秀一さんに話し掛けた。たしか、こんなやりとりをしたはずだ。 「いつも、難しい本をお読みになるんですね」 「そういうわけではないんですけど、でも、この本屋で注文すると間違わずに取り寄せてくれるので助かります」 「他の本屋さんだと、だめなんですか?」 「いやぁ、何度か取り寄せる本を間違われてしまって。 なので、ついここに来てしまいますね」  たしかに、秀一さんの注文する本は難しいタイトルなので、取り寄せる本屋も大変だろうとは思う。けれども、その中でこの本屋を選んで信頼してくれているのがうれしかった。  それから、秀一さんは私にこう言った。 「いつも本の注文を受けてくれていますよね。あなたはまだ学生さんなのに、たいしたものだ」  それを聞いて、顔が熱くなって胸が跳ね上がったあの瞬間の感覚を今でもよく覚えている。この人は私のことをしっかりと見ていてくれたのだと思うと、なおのことうれしかった。  その日以来、あまりお客さんがいない時間に秀一さんが来た時なんかは、短い間とはいえ業務以外の言葉を交わすこともあった。どうしている間に、秀一さんの仕事が医者であることとか、仕事のために医学書が必要であることとか、それと、仕事のちょっとした困りごとなんかを聞かせてくれたりした。私も、学校での出来事やテストの話、それから、毎日作るごはんの話なんかをした。  そうしているうちに、私と秀一さんの仲は次第に近づいていった。本屋でのつかず離れずの関係から一歩踏み込みたいといつしか思うようになっていて、きっとそれは秀一さんも同じだったのだと思う。ある日のこと、いつも通り本屋に注文しに来た秀一さんが、小さな声で私にこう言った。 「藍さん、今日は何時頃に仕事上がりですか?」 「今日ですか? 今日は七時頃に上がります」  私の答えを聞いて、秀一さんはそっと微笑んでこう続けた。 「それだったら、バイトのあと一緒に夕食でもどうですか? もし良いようでしたら、迎えに来ますので」  その申し出をされた時の甘い胸の高鳴り。この本屋の外で、秀一さんと話すことができるということに期待が募った。  男性とふたりで食事などして良いのかと少しだけ戸惑ったけれども、私はバイトのあとに、秀一さんに迎えに来てもらうことにした。  その日の夕食は、いつも友達とおしゃべりするために入るようなファミレスとかではなく、かといって高級すぎるわけでもない、個人経営のレストランだった。  席に通されて椅子に座り、秀一さんに訊ねる。 「このお店によく来るんですか?」  すると秀一さんははにかんで答える。 「よく、というか、たまに来ますね。 大きな仕事を上手く片付けたあととか、なんて言うんだろう、自分へのご褒美みたいな」 「そうなんですね」  そんな自分へのご褒美に使うようなお店に私を連れて来てくれるなんて。もしかしたら、私を食事に誘ったのは、秀一さんとしても思い切った行動だったのかもしれない。  秀一さんに、このお店のおすすめメニューを訊いて、注文をする。このお店はポットパイが自慢らしく、秀一さんはそれを食べるととてもほっとすると言っていた。  食事をしながら、本屋の中では話しきれなかったことを沢山話した。その中で、秀一さんは少しだけ寂しそうに笑って家族の話をした。  秀一さんは家族と仲が良くないらしく、大学進学を機に東京に出て、地元に戻る気はないのだという。秀一さんの両親は昔から厳しくて、けれども秀一さんのことを褒めるということもなく、そのくせ、学校ので成績が良い秀一さんのことを周りに自慢して回っていたのだという。  それは、秀一さんの地元で一番レベルの高い高校に入った時から大学在学中まで続いて、今は医者であることをあいかわらず自慢して回っているらしい。  秀一さんが呻くように言った。両親が大事なのは、自分ではなく自分の肩書きなのだと。  それから、弟がひとりいるけれども、その弟も歳が離れていて頼りにならないとのことだった。聞く限りでは、弟さんは私より年下のようだった。それだと、なにかを相談するにもしづらかっただろう。  秀一さんの家族の話を聞くのは苦しかったけれども、秀一さんはもっとつらいのだ。私に話して少しでも楽になるならと、私はじっと耳を傾けた。  ひとしきり家族の話をしたあと、秀一さんが私の目をじっと見てこう言った。 「こんな俺でもよかったら、付き合って欲しい」  即答はできなかった。こんなに思い過去を持つ秀一さんを、私は支えることはできるのだろうか。そう思ったのだ。けれども、それと同時に、そんな大きな影を持ちながらも優しく接してくれる秀一さんになおのこと惹かれたし、見放すことなんて出来ないと思った。  私はゆっくりと頷いてこう返した。 「これからよろしくお願いします」  秀一さんと付き合いはじめて、劇的に生活が変わったわけではなかった。ただ、秀一さんと過ごせる時間が少しだけ増えて、それを私はしあわせだと思った。  そして高校二年の夏、私は秀一さんからプロポーズされた。  まだ高校生なのに結婚なんて。そう思ったけれども、法的には結婚が可能な年齢だというのはわかっていたし、なにより、秀一さんの家から離れたいという強い願いを無碍にすることはできなかった。自分を利用する親から離れるために、私の家に籍を入れたいとそう言ったのだ。 「たのむ。俺はもう、藍しか頼れないんだ」  泣きそうな顔をしてそう懇願する秀一さんを見て、私は決意する。  この人を守るために、私はこの身を捧げようと。  秀一さんのプロポーズを受けて、私はすぐに両親に連絡をした。結婚するための許可を得るためだ。私はまだ未成年で、親の許可なしには結婚できない。そして案の定、両親は私の結婚に反対した。けれども、ここで折れてはいけないのだ。私は、秀一さんを守ると決めたのだから。  電話でやりとりをしたあと、その相手を連れて一旦帰ってくるよう両親に言われたので、私と秀一さんは離れた所に住む両親の元へと行った。その時に、秀一さんがなぜ私と結婚したいのか。その理由を私の両親に話した。家族との不仲のことを話したのはもちろん、どれだけ私を大切に思っているか、どれだけ愛しているか、そんなことも両親に話した。  私のことを大切にしてくれているのはわかっていたけれども、あそこまで熱烈な愛の言葉を聞いたのはその時がはじめてだったかもしれない。  結局私の両親は、私が大学に通うための費用を秀一さんも出すというのなら、そして、私のことをしあわせにすると約束するなら、結婚を許そうと言ってくれた。  それからの日々は、結婚のための準備が慌ただしく進められていった。式を挙げる前に入籍の手続きがあったし、学校の方にも、私が結婚するという話を通しに行かなければいけなかった。  退学という話も出たけれど、法律上許されていることである上、両親の許可も得ている。それに、校則にも在学中の結婚は禁止という旨はかかれていないと、なんとか校長を説き伏せて、学校へ通い続ける権利も確保した。  そんな慌ただしい日々の後、春休みに私と秀一さんは慎ましい式を挙げた。参列したのは、私の家族と秀一さんの友人だけという、こぢんまりしたものだった。  短い期間だったとはいえ、ここまで本当に大変だった。けれども、結婚を決めたのは私だし、これでもう秀一さんは大丈夫なのだと思うとようやくひと安心できた。  それから約一年が経って、年始の頃に秀一さんが実家に私を連れて行きたいと言った。あんなに家族に会いたくないと言っていたのになぜだろうと思いながらも、それでも義両親に挨拶できるならしておいた方がいいだろうと、私は秀一さんに着いて彼の実家へと行った。  秀一さんの実家では義両親に冷たくされ、食事の支度などもやらされた。そして私と同じように食事の用意や家のことをやらされている秀一さんの弟……恵君と言う名前らしい……と一緒に、怒鳴りつけられたりなどもした。  ああ、秀一さんはこんな家の中で育ったのだ。秀一さんがこの家から離れられるのなら、私がした選択は間違いではないのだ。  身が凍るような一日を過ごして東京へ帰る。その道中、秀一さんの弟の、恵君のことが気に掛かった。私より年下で、家に居場所がないと言ってたあの子は、私より年下のあの子は、これからどうするのだろう。秀一さんのように、家を離れられる日が来るのだろうか。  それを考えると、少しだけ胸が痛んだ。  高校を卒業して、私は無事に志望校に入学することができた。将来弁護士になるという夢を抱えて、法学科へと進んだ。  大学での勉強は新鮮なことがたくさんあったし、思いきって入ってみた文芸サークルでの活動も、私の大学生活を充実したものにしてくれた。私に良くしてくれる先輩がいたのも、その一因だろう。  けれども、大学生活は楽しいことばっかりではなかった。大学に入る前、そう、高校の時からなのだけれども、私が結婚していることを悪く言う人が絶えないのだ。この歳で結婚なんて考え無しだとか、節操がないだとか、相手が医者だから金目当てなのではないかとか、そんなことを色々な人が噂した。もしかしたら、生徒だけでなく教授の中にも、私のことを良く思っていない人はいたかも知れない。それでも、私は結婚した本当の理由を誰かに話すということをしなかった。  いや、正確には一回だけ、ひとりだけに秀一さんと結婚した理由を話した人がいる。それは高校時代の後輩だ。彼女は私が結婚を決めた時、他の人のように私の悪口をいうのではなく、私のことを心配してくれた。彼女に理由を話した時のやりとりはこの様な感じだった。 「大月先輩、なんで結婚なんてしようと思ったんですか?」  彼女は私よりも、秀一さんの方に苛立っているようだった。だから私はこう答えた。 「私はね、家でつらい目にあってるって言う秀一さんのことを守るって決めたの」 「でも、先輩よりずっと年上の男じゃないですか。なんでそんなやつがまだ高校生の先輩に」 「それはね、きっと湯島さんにもわかると思うの。 あなたが弟君を守りたいと思うのと、きっと同じだから」  そう、あのときは後輩の湯島さんも、彼女の弟君が学校に馴染めていなくて、ずっとピリピリしているのを心配していた。だから湯島さんにも、私が秀一さんを守りたいという気持ちをわかってもらえると思ったのだ。  秀一さんの話を少しだけして、それから私は湯島さんにこう言った。 「このことは、なるべく他の人には話さないでね」  それを約束だと思ったのだろう。湯島さんは少なくとも、私が高校を卒業するまで、私が結婚を決めた本当の理由を誰にも話さなかった。  秀一さんと結婚した本当の理由。それをあまり他の人に知られたくない理由はあった。秀一さんに口止めされたというわけではなく、あのことを話すことで、秀一さんのことを疵付けてしまうのではないかと心配だったのだ。疵付けてしまうというのは、彼の心はもちろん、彼の名声もだ。秀一さんはずっと疵付けられながら生きてきたのだから、もう誰にも疵付けさせたくないと思ったのだ。  もしかしたらこれは私の偽善なのかもしれない。でも、秀一さんのことを理由に自分への悪口を躱すということが、どうしようもなく卑怯なことのように感じられたのだ。  それでも、時折耳に入ってくる自分の悪い噂は、私の気持ちを圧迫した。ある日私は、夕食時にこう零してしまった。 「実はね、私、学校で悪く言われてるの」 「なんでだい? 藍がなにか悪いことをしたわけじゃないだろう」  心配そうにそういう秀一さんに甘えたくなった。だから、ついこう続けてしまったのだ。 「私が秀一さんと結婚したの、お金目当てなんじゃないかって、そう言われてて」  すると秀一さんは優しく笑ってこう言った。 「そんなんじゃないっていうの、俺はわかってるから。 藍はなにも悪いことなんてしてない。心ないやつの言うことなんて気にしなくていいよ」  それを聞いてひどく安心した。秀一さんが私を信頼してくれている。それだけで十分だった。  私たちは一緒に大変な時期を乗り越えたのだから、これからもやっていけるのだ。そう、今のしあわせが途切れてまたつらい時期が来ても、一緒にいればまた乗り越えていけるのだとそう感じた。  少しだけ居心地の悪さを感じながら大学生活を送って、大学三年生の時。ひとつ上の先輩と部室でふたりきりになった時にこう訊かれた。 「そういえば大月。お前、なんで今の旦那と結婚しようと思った?」  それは突然の質問だった。けれども、こういう質問には慣れているので、私はにこりと笑って言葉を返す。 「旦那さまが優しくて、でも、なんか放って置けない人だからですよー。 京橋先輩はなんでこれが気になったんですか?」  すると、京橋先輩は真剣な顔をして、じっと私と目を合わせる。いつも親しくしてくれている先輩とはいえ、私よりずっと大柄な京橋先輩にそうされると、威圧感があった。  少し黙ってから、京橋先輩が口を開く。 「俺にはただそれだけの理由でお前が学生の時点で結婚を決めるとは思えない。 なにか、他にも理由があるだろう」 「それは……」  いっそのこと、京橋先輩も私がお金目当てで秀一さんと結婚したと思ってくれればいいのに。そう思ったけれども、取り繕うようにそう言っても、京橋先輩は納得しないだろう。彼は嘘と真実を見分けるのが巧いのだ。  だから、周りに誰もいないのをもう一度確認してから。私はほんとうのことを話した。秀一さんが両親に利用されて、ずっとつらい思いをしてきたこと。私に助けを求めてきたこと。そんな秀一さんを見捨てることができないということ。そんなことをだ。 「なるほどな。たしかにお前らしい」  どうやら京橋先輩はこれで納得したようで、それと同時に私がこの理由を話したからなかった理由も察したらしく、このことは黙っておくと言ってくれた。  安心していると、京橋先輩はなにか考える素振りを見せてから、厳しい表情で私に言う。 「お前が旦那を大事にしてるのはわかった。 だけど、旦那には気をつけろ。 最悪、なにかあった時は離れることも考えておけ」  私は驚いた。京橋先輩がそんなことを言う理由がわからなかったのだ。もしこの言葉を言ったのが京橋先輩でなかったとしたら、私はひどく怒っていたと思う。けれども、京橋先輩はなんの理由もなく人を悪く言うような人ではない。だからきっと、京橋先輩なりになにか思うところがあるのだろう。  もしなにかあったとして……そのなにかがなんなのかは、私にはわからないけれど……秀一さんから離れたいと念う日は来るのだろうか。秀一さんを守ると決めたのは私自身だし、なにかあっても見捨てることなどできないのだ。  きっと私と秀一さんは、これから幸せな家庭を作れる。私にはそう信じて疑っていなかった。  京橋先輩が卒業して、私も大学四年生になって、忙しい日々を送っていた。今までももちろん、それなりに忙しかったのだけれども、今年は卒論を仕上げなくてはいけない。卒論を仕上げるために調べ物をして、講義の方の課題もこなして、それと、できるときに文芸サークルに提出する原稿も書いて。学校のことだけでもやることはたくさんあったけれども、それ以外にも家に帰れば家事もたっぷり待っている。  秀一さんは家事を一切やらないけれども、それは仕方ないと思う。秀一さんは仕事柄、勤務時間が一定でなかったりするし、急に呼び出されることもある。そんなふうに仕事で忙しい秀一さんが家事まで手を回せないのは仕方のないことだし、ここは私がサポートするところだと思う。  それに、秀一さんが仕事から帰ってくるまでに家を整えて、いっしょに食べる料理を作るのはやりがいがある。ひとり暮らししていた時にはなかったやりがいと充実感があるのだ。  今日も卒論のための調べ物を大学の図書館で進めていく。こうやって資料をたくさん探さなくてはいけない時は、本屋でのバイトの経験が役に立つ。図書館のどこにどんな本が置かれているのか、そういうことを把握しやすい気がするのだ。あの経験がなければきっと、ぼんやりと本棚を見て目的の本を探すことは骨が折れていただろう。  図書館で調べ物をして必要なことをノートにメモして。卒論を書くのは家にあるワープロでやっているので、帰らないことには続きを書けない。それに、帰り道で夕飯の材料も買って帰らないといけない。  今日もまた、私が作った料理を食べて秀一さんは喜んでくれるだろうか。そう思うと、大学を出る時の足取りが軽くなった。  家の最寄り駅につき、自宅へ向かう前に、スーパーに寄って行く。今日の夕飯はなににしようか。そんなことを考えながら、籠の中に食材を入れていく。そういえば、お米もそろそろなくなるんだっけ。持って帰るのが大変だけれど、がんばって買っていこう。  家に帰り軽く家の中の掃除をして、夕飯を作りはじめる。料理がそろそろ出来上がるという頃に時計をみると、秀一さんが帰ると言っていた時間にそろそろなるところだった。  出来上がった料理をテーブルの上に並べ、秀一さんの帰りを待つ。その間、私は頭の中で卒論の構成を思い出しながらどのように組み立てるかを考える。こうやって考える時間を取ると、スムーズに文章を書ける気がするのだ。  そうしているうちに、玄関から声が聞こえた。 「ただいま」  その声に、私は立ち上がって迎えに行く。 「おかえりなさい。 ごはんはもうできてるのよさ」 「そうだな。お腹が空いたよ」  秀一さんはいったん部屋に戻って、荷物とジャケットを脱いで居間に来た。途中洗面所も寄っていたので手も洗ってきたのだろう。  一緒に食卓について食事をする。その間、秀一さんは今日はどんな仕事をしただとか、それが大変で疲れただとか、そんな話を聞かせてくれる。やっぱり、人の為になる仕事なのだから、気を張って疲れるのだろうなと思う。 「お疲れさまなのよー。 おうちではゆっくりしてね」 「ああ、そうだね。 ところで、風呂の準備はできてる?」 「お風呂はもう沸かしてあるから、いつでも入れるのよ」  そんなたわいもない会話をして、私は前から考えていたことを口にする。 「そういえばね秀一さん。 私、今度の司法試験受けてみようかと思うの」  すると、秀一さんは驚いたような顔をしてから、頭を振ってこう返した。 「いや、司法試験を受けるのは、大学を卒業してからの方が良いんじゃないかな」 「なんで?」  秀一さんが学業のことを先送りにしろというのははじめてだったので、疑問に思う。  思わず首を傾げると、秀一さんは困ったように笑ってこう続ける。 「だって、司法試験の学科試験、大学を卒業していれば免除になるんだろう? 学科まで勉強してると大変だろうから、そこが免除になるなら卒業してからの方が、試験を受ける藍が楽だろう?」 「なるほど。それもそうねー」  やっぱり、秀一さんは私のことを考えて、こういう提案をしてくれたのだとうれしくなる。正直言って、私としても学科試験をしないで済むならそれに超したことはないのだ。 「それに、今は卒論で忙しいだろう。 とりあえず卒論を仕上げて、卒業することをまず考えないとな」 「それもそうね。卒論も結構時間かかりそうだから」  言われてみれば、卒論を書きながら司法試験に挑むのは、なかなかに無謀だ。司法試験の内容と卒論の内容とで被る部分はあるだろうけれども、司法試験で出るような事例全てを卒論で扱うわけではない。それも考えると、少なくとも卒論を仕上げてから司法試験の勉強をした方がよさそうだ。  ふと、秀一さんがこんなことを訊いてきた。 「そういえば、就活はしてるのか?」  その問いに、私は少し考えて返す。 「実は、就活はしてないの。 司法試験に受かるまではバイトするつもりなのよさ。 予備校通うのに、また学費を出さなきゃいけないから」  それを聞いて、秀一さんは満足そうだ。  そう、就活をして、就職できたとして。就職してしまったら、司法試験の勉強をする時間がなかなか取れなくなってしまうだろう。それもあってバイトをするという選択をしたのだけれども、どうやら秀一さんはこの選択を肯定的に取ってくれているようだった。きっと、私が司法試験を頑張れるように応援してくれているのだろう。  私はもっと、大学にいる間から勉強を頑張ろうと心に決めた。  そして季節が過ぎていって、卒業の季節が近づいてきた。  卒論はだいぶ前に無事に仕上がっていて、教授にもしっかりと受け取ってもらえた。多少駄目出しはされたけれども、それでも期限内に提出できて、その時は心底ほっとした。  もうすぐ卒業だというのに、いまだに私が結婚しているということについて悪い噂は消えていなかったし、なぜかその噂が下の学年の人にまで広まったりもしていた。それは気分の良いものではなかったけれども、秀一さんがいつか言ってくれた、私はなにも悪いことをしていない。という言葉が、私の心を慰めてくれていた。  それに、今では文芸サークルの後輩達に恵まれている。一昨年度、去年度、今年度と入って来たサークルの後輩達は、私が結婚しているということについて、なにも悪く言うことはなかった。むしろ、今年度に入ってきた後輩は、私と秀一さんとの出会いと結婚を、ロマンスだとまで言ってくれた。憧れが籠もったその言葉を聞いて、今までになかったその反応に驚いてしまったし、なによりあとからじわじわと嬉しさがこみ上げて、家に帰ってから思わず泣いてしまった。  その時の涙は誰にも見られていないけれども、もしかしたら、誰かに見せてもいいものだったのかもしれない。もし誰かに見せることがあったとしたら、どれだけその言葉に私が救われたか、それを周りに示すことができたのではないかと、今になって思うのだ。  そんなあたたかな後輩達ともお別れのときが来た。大学の卒業式を迎え、無事に卒業証書を受け取り、卒業式のあとに、いつものように文芸サークルの部室に行く。そこで私は後輩達からたくさんのお祝いの言葉を貰って、そのお返しに、私からも後輩達に言葉を送って……そう、ずっと孤独を抱えているかのような後輩がいたので、その子の行く先が心配で言葉をかけずにはいられなかった……そのあとに、後輩達がお祝いに、一緒に食事に行こうと誘ってくれた。  私はその誘いに乗ることにした。すぐに携帯電話で秀一さんに今日は食事をして帰るので、そちらも食事を済ませて帰って来て欲しい旨をメールで送り、後輩達と一緒に食事に出かけた。  家に帰り、しあわせな気持ちのまま秀一さんが帰って来るのを待つ。きっと秀一さんも、私の卒業を祝ってくれるに違いないと思ったのだ。  そして、秀一さんが帰ると言っていた時間になり玄関から声が聞こえる。 「ただいま」 「おかえりなさい」 「夕飯は?」 「えっ?」  夕飯は食べてきてとメールで送ったはずなのに何で?  私が戸惑っていると、秀一さんは居間まで来て夕飯の用意ができていないのを見て、私に冷たい口調で言う。 「いくらお前が外で食べてくるからって、俺の分の夕飯を準備しない理由にはならないだろう」  秀一さんが、こんな冷たい口調で私に言うのははじめてなのでますます混乱してしまう。  私、今日卒業式だったんだよ。無事に卒業できたんだよ。そんな話をできる雰囲気でもなく、私は慌てて夕飯の準備をするために買い物に出かけようとする。  準備をするその後ろで、舌打ちが聞こえた気がした。
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