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大学を卒業して数日、どうにも卒業式のあの日以来、秀一さんの様子がおかしかった。
いや、おかしいというのだろうか、とにかく、今までとは私に対する接し方が違うのだ。それは気のせいといえば気のせいなのかもしれないけれども、卒業式の日に家に帰って来た時にかけられたあの冷たい言葉。あれ以来、秀一さんが私にかける言葉が冷たくなった気がするのだ。
どうしてだろう。高校時代に出会って、はじめて一緒に食事をして、それ以来ずっと私に優しくしてくれた秀一さんが、急に冷たくなった理由がわからなかった。
秀一さんが仕事に出ている間、家の掃除をしながら考える。そしてふと思い当たる。もう大学も卒業したのだから、今まで通りに私を甘やかしてはいけないと思ったのかもしれない。自立した人間になれるよう、すこし突き放した態度を敢えてとっているのかもしれない。そう思った。
たしかに、私は今まで秀一さんに甘える素振りを見せることもあった。だから、そのままでは私が自立できないと考えてのことなのだろう。いくら夫婦とはいえ、お互い自立していないといずれ負担になってしまう。秀一さんはそれを避けたいのだろう。
それならば、私はそれこそ急いで司法試験の勉強をして、合格して、弁護士資格を取らなくてはいけない。早く目標を掴んで、秀一さんと肩を並べられるようにならないと。そうすることが、大学の学費を半分出してくれていた秀一さんへの恩返しになるのだろう。
決意を胸に、部屋の掃除を終えて自室に戻る。机の上には大学の時に使っていた教科書と六法全書、それに判例集と参考書が積まれている。
判例集とノートを開き、ペンを手に取る。私は刑法と民法が少々苦手なので、そこを重点的に勉強しなくてはいけない。勉強をする時にいつも使っているタイマーをセットして、判例集とにらめっこしながらノートに書き込んでいく。一時間勉強したら、夕飯の買い出しに行かないと。秀一さんが帰って来るまでに夕飯を用意しないといけないのだ。夕飯の献立はまだ考えていないけれど、今は勉強に集中しよう。献立はいつも、スーパーで売っているものを見ながら考えるのだから。
勉強を終えて、スーパーで買い出しもして夕飯の準備をする。今日のおかずは秀一さんが好きな、豚バラをレモン風味のタレて煮こんだやつだ。それだけだと野菜が少ないので、ほうれん草の白和えも作った。お味噌汁には大根とにんじんを細切りにしたものを具として入れている。
夕飯の準備ができて、居間で秀一さんの帰りを待つ。間もなく玄関が開く音が聞こえた。
「おかえりなさい」
「夕飯は?」
「今できたところよ」
そういえば、このところ秀一さんは帰って来てもただいまと言わなくなった。そのことに今気がついた。秀一さんがただいまを言わなくなったのは、いつからだろう。それは、そんなに前からのことではない気がしたけれども。
テーブルに着いて食事をはじめる。秀一さんはごはんと豚バラの煮物に早速手を着けている。
ここ数日、食事の時の会話も減った。減ったというよりは、秀一さんが一方的に仕事での愚痴を話すようになって、私の方からなにかを言うということがなかなか出来なくなったのだ。
「まったく、困った患者がいるものだよ。医者の言うことを聞かないなんて。
治して貰う立場のくせに、何様のつもりなんだか。これだから……」
秀一さんの仕事は、本当に大変なのだと思う。だから、こういう愚痴が出るのも仕方ないのだ。
秀一さんの愚痴を聞いて言葉が途切れたところで、私は思いきって自分から話し掛ける。
「話が変わっちゃって悪いんだけどね、私、司法試験を受けるために予備校に行きたいのよさ。それで」
そこまで言ったところで、秀一さんは私をちらりと見てこう言う。
「予備校なんて行く必要はないだろう」
そうか、秀一さんは私が大学時代勉強をがんばってたのを知ってるから、予備校に行かなくても司法試験は何とかなると思っているのだ。でも、私はそこまで自分が優秀だとはとても思えない。なので、こう言葉を続けた。
「でも、やっぱり苦手な分野とかあるし、予備校に通って弱点を埋めていきたいのね。
自分だけで勉強するにも限度があるし、司法試験に受かるの、予備校に行かないと難しいと思うの」
すると、秀一さんは私を睨み付ける。こんな表情を見るのははじめてなので、思わず身が固まった。
「司法試験なんて受けてなんになる。そんなもの受けるんじゃない」
頭の中が真っ白になった。司法試験を受けるなら大学を卒業してからの方がいいと言ったのは秀一さんなのに、今になってなんで司法試験を受けるなと言うのだろう。これがわからなかった。
私は震える声で、司法試験を受ける理由をあらためて口にする。
「だって、弁護士になるには司法試験に受からなきゃいけないのよ?
私、弁護士になりたいって前から……」
私の言葉に、秀一さんは鼻で笑う。それから、馬鹿にしたような口調でこう言った。
「そんな肩書き必要ないだろう」
どうしてそんなことを? 弁護士になりたいという夢も目標も、高校の時に働いていたあの本屋で話していた時にも、はじめて一緒に食事をした時にも秀一さんに伝えていたのに。ずっと私が弁護士になることを応援してくれているのだと思っていたのに、どうして急にそのことを否定するのだろう。
突然のことになにも言えなくなって呆然としていると、秀一さんはいかにも私を見下した態度でこう続ける。
「俺に釣り合う学歴はある程度必要だから大学に通うのはある程度目を瞑ったけどな、本当なら女に学問なんて必要ないんだ。
お前は俺の言うことだけ聞いていればいい」
どうしてどんなことを言うの? 私が目標に届くまで応援してくれるんじゃなかったの? 今まで私が弁護士になるためにがんばっていたのを応援してくれていたのは全部嘘だったの? そんな疑問が頭の中で渦巻いて、頭が重くなる。
それでも。私は自分の目標を諦めたくない。だからもう一度秀一さんの方を見てこう言う。
「でも、弁護士になるのは私の昔からの夢で目標だったの」
その直後、頭に衝撃が走った。なにが起こったのか一瞬わからなかったけれども、恐る恐る秀一さんの方を見ると、握りこぶしを振り上げて、私の方へと振り下ろす。また頭に衝撃が走った。
秀一さんが私を殴ったということはわかったけれども、どうしてそんなことをされたのかは理解出来なかった。
秀一さんがテーブルを叩いて私を怒鳴りつける。
「この身の程知らずが!
そんなものとっとと諦めて働いて金を稼いでこい!」
どうして、どうしてそんなことを言うの? どうしてそんなことをするの? あんなに優しかった秀一さんはどこへいってしまったの? 今自分の身に起こったこと全てが理解出来なかった。いや、正確には理解したくなかったのだと思う。これは秀一さんの一時の気の迷いだと思いたかった。明日になれば、また優しい秀一さんに戻っているのだと、そう信じたかった。
あの日以来、秀一さんから殴られたり怒鳴られたりということが毎日のように続いた。その原因はわからない。なにが秀一さんの機嫌を損ねているのかもわからない。ただ秀一さんに言われるままにパートをはじめて、仕事から帰ってきたら家事をして。そんな日々だ。
パートに行くようになってもはじめのうちは、それでも司法試験の勉強を独学でもやろうと開いた時間に机に向かったりもしていた。けれども、それを秀一さんに知られると、秀一さんは遠慮も断りもなく私の部屋に入ってきて、目の前でノートや参考書、判例集や六法全書を全て破いて打ち棄ててしまった。それだけなら、まだかき集めて直すこともできただろうけれども、秀一さんはもはや執念とも言えるような手つきで、それらのページを全てシュレッダーにかけてしまった。
事件の捜査をするひとなんかだと、シュレッダーにかけられた書類の復元もできることもあるという話は聞いたことがあるけれども、私にそれは無理だ。私には使える時間が限られていているし、技術もない。
それならあたらしい参考書を買うしかないのだけれども、パートで稼いだお金は全て秀一さんに取られてしまっているし、お小遣いもない。生活に必要なものは全て秀一さんのチェックが入って、支出を確認される。余分なお金を持つことは許されないのだ。
そんな生活を続けて、私はついに秀一さんに逆らう気力がなくなった。ただ毎日パートに出て、家事をして、秀一さんの相手をする。秀一さんの相手をすることは嫌なことではなかったはずなのに、今となってはそれは恐れと常に一緒だった。
そんな日々を何年続けただろう。私はすっかり秀一さんに怯えきってしまい、学生時代にあれほど憧れて、輝かしく思っていた弁護士になるという夢も、ほとんど思い出さなくなっていた。ただただ毎日パートと家事をこなして、秀一さんが帰って来れば怒鳴りつけられて殴られて、それでも、秀一さんがそうするのは私のことを頼ってのことだと思っていた。
だって、秀一さんは昔私に言ったのだもの。自分を利用する親から助けて欲しいって。あんなに泣きそうな、つらそうな顔をして私に助けを求めてきたのだもの。その時のことを私は忘れることなんてできないし、きっと秀一さんも忘れていない。だから、秀一さんは今でも私に家のことを任せて頼っているのだ。秀一さんだって、ひとり暮らしをしていたことがあるのだから、多少は家のことができると思うけれども、それでも敢えて私に家のことを任せるというのは、私を信用して頼っているからなのだ。きっとそうに違いない。私は何度も何度も自分にそう言い聞かせた。そうしないと、すべてを投げ出して倒れ込んで、秀一さんのことを支えられなくなってしまうような気がしたからだ。
私は秀一さんを守るのだと、プロポーズされたあの日に決めたのだ。秀一さんだけでなく、自分自身にも誓ったのだ。その誓いを裏切ることなど、ほんとうはできるのかもしれないけれども、そうすることは自分自身が許さなかった。
秀一さんが私を怒鳴ったり殴ったりするのは、きっと私に到らない部分があるからなのだろう。それを直すためにやっているのだ。だから、私が全てを完璧にこなせるようになれば、秀一さんはまた昔のように優しい姿を取り戻してくれる。きっと、がんばったねと優しい言葉をかけてくれる。そう信じて日々を過ごす。その信念が、なんとか私の足を立たせてくれた。
毎日の仕事で疲れ切ってはいるけれども、きっとそれは秀一さんも同じ……いや、もしかしたら秀一さんの方が大変かもしれない。なにせ人の命を救う仕事をしているのだから、たくさんの命を目の前にしてそれらに責任を持つ仕事をしているのだから、大変でないわけがない。疲れるなと言う方が無理なのだ。
それに、このところは秀一さんも帰りが遅くなることが多い。きっとたくさんの患者さんを診ていて、病院でやらなくてはいけない仕事がたくさんあるのだろう。
そんな秀一さんが体調を崩さないように、私は毎日家の中をきれいにして、服を洗濯して清潔に保って、おいしいごはんを作る。このところは秀一さんは嫌いな野菜をあまり食べなくなったけれども、なにも食べないよりはましだと思って、毎日日替わりで秀一さんの好物を作る。それでも文句を言われたり怒鳴りつけられることはあるけれども、それはきっと私が上手く作れなかったからで、それを厳しく指摘するためのものなのだろう。
完璧に家事も、仕事も出来るようにならないと。家事を完璧にして、仕事も完璧にして。そう、仕事を完璧にできるようになれば、きっとお給料も上がるだろうし、そうしたら、大学時代に秀一さんが出してくれていた学費を秀一さんに返すこともできる。それ返し終わったら、今度は生活にもゆとりができるだろう。そうしたらきっと、その暁にはきっと、秀一さんはまた私に笑顔を向けてくれるのだろう。
私は、もう長らく見ていない秀一さんの笑顔が恋しかった。
パートが休みのある日のこと。この日は良く晴れていて、朝から洗濯をするのに丁度良い日だった。
家にある洗濯機は乾燥機付きのものだけれども、秀一さんは乾燥機を使うことをあまり好まない。きっと乾燥機で乾かしたものと天日手乾かしたものとで感触が違うのだろう。私としても、乾燥機を使うと電気代がかかってしまうので天日で干せるのであればなるべく外で干したい。
洗濯かごに入れられた洗濯物を選り分ける。色の濃いものと薄いものはなるべく別々に洗いたいからだ。秀一さんの服は、色が薄いものが多い。普段着ているのがスーツなので、インナーでワイシャツを着ることが多いというのもあるのだけれども、濃い色の服だと汚れがわかりづらいというので好まないのだ。だから、私は秀一さんの服に着いた汚れが残らないように、毎日気を遣って洗っている。しみ抜きや黄ばみを落とすことなんかもだいぶ慣れた。
秀一さんのワイシャツを洗濯ネットに入れていると、ふと、甘い香りがした。洗剤も柔軟剤も無香料のものを使っているので、それらの匂いではないはずだ。かと言って、秀一さんがなにか甘い香りのものを買って来たということも、少なくともここ最近はない。
甘い香りがしたワイシャツに恐る恐る顔を近づけて匂いを嗅ぐと、それは明らかに香水の香りだった。
どうして? 秀一さんは仕事場に香水を着けていくことなんてないし、そもそも香水を持ってすらいなかったはずだ。
でも、どうなのだろう。香水が嫌いだという話は聞いたことがないし、もしかしたら、仕事から仕事場に香水を着けていけないだけで、実際は香水が好きなのかもしれない。私が香水にあまり興味がないから今まで特に話題に出さなかっただけで、前から香水に興味があったか、もしくは最近興味を持ったか、そのどちらかなのだろう。
休日にどこか出かける時に着けていった香水が落ちきっていなかったのかもしれない。そうだとするなら、ちゃんと落とせるようにしないと仕事に差し支えてしまうだろう。
そこまで考えてふと、秀一さんが使うにしては、ずいぶんと甘い香りだなとぼんやりと思った。
その日の晩、夜遅くに秀一さんが帰って来て、いつものように夕飯を食べながら秀一さんの仕事の愚痴を聞く。それが途切れた頃に、私は恐る恐る伺うように、秀一さんにこう訊ねた。
「秀一さん、最近香水買ったの?」
すると、秀一さんはじろりと私を睨み付けてこう言った。
「どうしてそんなことを訊くんだ」
体を固めながら、私は理由を言う。
「今日洗濯する時に、秀一さんの服から甘い匂いがしたの、それで」
そこまで言って、秀一さんが振り上げたこぶしが私の頭をしたたかに打ち付けた。思わず床に転がった私の身体を、秀一さんが何度も何度も殴りつけながら怒鳴りつける。
「余計な詮索はするな!
お前は黙って俺のために働いてればいいんだ!」
それから、秀一さんはテーブルの上のものを全部床に薙ぎ捨てて部屋へと戻っていく。
運良く食器は割れてないみたいだけれども、早く起き上がって片付けをしないと。また秀一さんに怒られてしまう。秀一さんを失望させるようなことはしてはいけないのだ。
そこまで考えてはたと思う。あの香水の匂いを思い出したのだ。秀一さんが自分で香水を買ったのなら、訊かれたことで不機嫌にはなってもここまで激しく殴りつけることはなかっただろう。それで私が考えられることはひとつだった。
秀一さんは浮気をしている。
そう思い至ってしまうと、急に今まで積み上げてきた無理が崩れていくような気がした。今まで秀一さんは殴るのも、怒鳴るのも、パートに行かせてお金を全部取り上げるのも、私のことを考えてのことだと思っていた。けれども、それはそう思いたかっただけなのだ。私は、本当はわかっているのに認めたくない事実から目を逸らしていたただけなのだ。
秀一さんは、私を奴隷としてしか見ていない。
この事実を、きっといつからか私は気づいていて、胸のどこかに引っかかっていたのだと思う。それを無理矢理押し込めるように、覆い隠すように、自分を誤魔化していたのだ。
ようやく自覚することができて、ふと頭の中にひとつの言葉が浮かんだ。
なにかあったら離れることも考えろ。
これを言ったのは誰だったっけ。私ではないはずだ。そう、大学時代の先輩、京橋先輩だ。京橋先輩は、秀一さんの本当の姿を、あの時すでに見抜いていたのかもしれない。けれども、当時偽りのしあわせの中にいた私に、それを遠慮なく伝えることはできなかったのだろう。
でも、私はほんとうに秀一さんから離れてしまっていいのだろうか。
あの日以来、私は秀一さんの元から離れることを考えるようになった。
ほんとうは、秀一さんが昔のように優しくしてくれるのなら、一緒に家庭を築きたいという気持ちはある。けれども、浮気をしているというのであれば、それは叶えられないことなのだ。
秀一さんに、何度か離婚の話を出した。けれどもその度に、殴られ、怒鳴られ、馬鹿にしたように、お前がひとりで生活なんてできるはずがないと罵られた。
そんな日々の中、私はついにパートに行くことができないほどに、体が痛むようになった。
秀一さんは仕事に出かけていて家にいない。逃げるなら今のうちだと思った。
電話で救急車を呼ぶ。その時に、軽く事情を話して、サイレンを鳴らさないできてくれるように伝えた。電話が終わった後は、なんとか玄関まで歩いて行き、鍵とドアロックを外す。そしてそのままその場にうずくまった。
どれくらい待っただろう。体の痛みで時間の感覚がわからない。ただ、どうしようもなく長い時間のように感じた。その長い時間の末に救急隊員の人が家のドアを開けて、私を運び出した。
救急車に乗り家族のことを訊かれる。家族のことを話してしまっていいものか。実家は遠いし、秀一さんも連絡先を知っている。ほんとうに逃げるつもりなのなら、実家にも連絡はしない方がいいだろう。もちろん、秀一さんにも。
私は救急隊員の人に、家族の誰にも連絡しないで欲しいと伝え、事情を説明する。
救急隊員の人が私の体の傷を見て、確認するように訊ねる。
「そうするとこの傷は?」
「はい、旦那さまにやられたんです」
病院について、待たされることなく診察室に通された。救急車の中で、救急隊員の人が緊迫した様子で病院とやりとりをしていたけれども、それのおかげだろうか。
とにかく、早く診察してくれるのは私としても助かった。身体中が痛くて、まともに頭を働かせることができないのだ。
私の診察をした医者が、厳しい表情で私に言う。
「体の、特に服で隠れる部分ばかりに打撲痕があるのは不自然だね」
そう、秀一さんは私を殴る時、いつも外からは見てわからない部分ばかりを狙って殴っていた。今思うと、それは私を虐待しているという自覚があってのことだったのかもしれない。
医者の言葉に、私はこう返す。
「旦那さまにやられたんです。全部」
「それは、ここ最近だけのことかな?」
「……何年も前から、ずっとです」
そのやりとりをして、医者が泣きそうな顔をして私にこう言った。
「君はもっと早く病院に来てよかったんだ。そう、それこそもう何年も前に……」
こういう時、医者は動揺することなどないのだと思っていたけれども、この医者は違うようだ。あきらかに、私の体の傷を診て、話を聞いて、疵付いているようだった。
医者が診察室の裏にいる看護師に声を掛ける。
「MRIの準備をしておくれ。大至急だ」
これからなにが起こるのだろう。思わず不安に思っていると、医者は私をじっと見て言う。
「これから、君の内臓に異常がないかどうか見させてもらうよ。
念のため、頭の天辺からつま先までね。
異常がなければそれに超したことはないけれど、君の状態と話を鑑みるに、非常に心配だ」
私は医者に訊く。
「もっと早く病院に来なかったこと、怒ってますか?」
すると医者は頭を振って、優しい声で返す。
「いや、君が今日、自分の判断でここまで来られただけでも褒めるべきことだよ。
虐待を受けているとね、正常な判断をするのが難しくなるんだ。
人の脳はそういうふうにできているから」
人から優しい言葉をかけられるのは、いつぶりだろう。秀一さんはもちろん、パートでも、他の人から厳しい言葉ばかりかけられていた。それは私が未熟だから仕方ないのだとずっと思っていた。それなのに、この医者は。
看護師が医者に声を掛ける。どうやら、私の検査の準備ができたようだった。
「とりあえず、君の旦那さんについてと、君がこれからどうするかについては検査をしてから話そう」
そういう医者に先導されて、私は検査室まで運ばれた。
検査が終わり、私は個室のベッドに寝かされた。検査の結果は、あの医者が私のところまで伝えに来てくれた。
「検査の結果、内臓があちこち痛んでいるようだったよ。原因は打撲だろう」
「そうなんですね……あの、私は」
これからどうすればいいのだろう。秀一さんから逃げるためにとりあえず病院まで来たけれど、このあとの手続きを自分でするのは困難なように感じたのだ。
医者が落ち着かせるように、優しく私に話しかける。
「大丈夫、君の旦那さんには連絡しないよ。
もちろん、君がこれから本気で旦那さんから逃げるつもりなのなら、他の家族にも連絡しない方がいいだろう。
けれども、君はしばらくこの病院に入院してもらうことになるけれど、そのために保証人が必要でね。
君の事情をわかってくれて、口外しない、信頼できる知り合いは誰かいるかな?」
その質問に、私はすぐには答えられない。私の事情をわかってくれて、口外しない、信頼できる知り合い。そんなものが今の私にいるだろうか。
そう考えて、なんとか思い浮かんだのは、秀一さんの弟の恵君と、高校の時の後輩の湯島さんだ。あのふたりは秀一さんに少なからず不信感を抱いていたから、少なくとも秀一さんには私のことを話したりはしないだろう。
あのふたりの連絡先は。それを考えて、なんとか思いだして医者に伝える。恵君の連絡先を聞いて、医者が一瞬驚いたような顔をした気がしたけれど、私の気のせいだろうか。
連絡先を聞いた医者が頷いてにこりと笑う。
「わかった。それでは、そのふたりに来て貰えるよう伝えておくよ」
「はい、お願いします」
あのふたりに連絡を取るためだろう、医者は病室から出て行った。
ドアが閉まる音を聞いて、ぼんやりと学生時代のことを思い出す。ほんとうは、大学時代の先輩や後輩に助けを求めてもよかったのかもしれない。けれども、あの時私を祝福してくれて、しあわせな家庭を築くことを願ってくれた後輩達に、こんな姿を見せたくなかった。後輩達には、私がしあわせに暮らしているのだと思っていて欲しかった。
そう、頼るのであれば、京橋先輩も頼れたのかもしれない。でも、京橋先輩から後輩達に私の話が伝わってしまうのは避けたい。やはりここで頼れるのは恵君と湯島さんだ。
しばらくベッドの上でぼんやりしていると、医者と一緒に恵君が病室に入ってきた。
随分と早く来られたと驚いていると、どうやら恵君はたまたま近くにいてすぐ来られたのだという。
恵君が、少しだけ秀一さんに似た顔を歪ませて私に言う。
「義姉さんは、もっと早くあいつから逃げてよかったんだ。
あんなやつ、もっと早く見捨てて良かったんだ……」
ああ、私は知らないうちに恵君にも心配をかけていたんだ。そのことを心苦しく思っていると、なにやら医者と恵君が話をしている。どうやら私の今後についての話らしいけれども、頭がぼんやりして詳細までは入ってこない。
そうしているうちに、もうひとり病室に入ってきた。湯島さんだ。湯島さんも私の側に来て、泣きそうな顔をしている。もしかしたら、私が結婚したと聞いた時から、ずっと不安だったのかもしれない。
恵君と湯島さんが同時に私のことを呼ぶ。それから、湯島さんがこう訊ねてきた。
「先輩、この怪我はどうしたんですか?
階段から落ちたとか、自転車に轢かれたとか」 私はためらいなく答える。
「本当はね、隠しておきたかったんだけど、旦那さまにやられたの」
すると、湯島さんも恵君も、怒っているような、でも泣きそうな顔をする。
その横で、医者が私に言う。
「詳しい話は後で沢山聞かせて貰うと思うけれど、何はともあれ、あなたは旦那さんから離れた方がいい。
大丈夫。その為の処理と手続きはこちらでやるよ」
それから、恵君に方を向いてこう続ける。
「君も協力してくれるよね?」
すると、恵君は履き出すようにこう答える。「ああ。義姉さんをあいつの元になんて置いておけない」
それからしばらく、お医者様に今までのことを話して、その次にこれからのことを話して、私はシェルターに入ることを決めた。
私はこれからほんとうに、秀一さんを見捨てて逃げるのだ。
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