花蘇芳の花冠を頂いて

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 ようやく逃げる決心をして病院へ運ばれ、しばらくの間搬送先の病院に入院することになった。私には貯金がないので入院費をどうしようかと思ったけれども、はじめの一週間分ほどを湯島さんと恵君が出してくれると言ってくれた。  そこまでお世話になるのは申し訳ないと思ったけれども、ふたりは、いままで私が虐待されていることに気づかず、なにもできなかったことを悔いているから、これくらいはさせてくれと言っていた。  私が秀一さんの元にいたのは自分の意思でだった……少なくとも、あの家にいた時の私はそう思っていた……だから、湯島さんと恵君のふたりにはなにも気負わないで欲しいと思ったけれども、あのふたりを頼る以外に私にはなにもやりようがない。なので、ありがたく言葉に甘えることにした。  けれども、一週間以上入院が長引くとしたらどうしたらいいのだろう。一週間以内に動けるようになるのであれば、いったん役所に行って医療保護の申請をすることもできる。けれども今の私に、そこまでする気力と体力が残っているだろうか。  私の不安を察したのか、私を診察してくれた医者が私に言う。 「君は入院費のことを心配しているのだろう? 大丈夫。こういう時のために、この病院にもケースワーカーはいるからね。ケースワーカーを通して医療保護の申請をすることもできるだろう」  そうか、ケースワーカー。私は医療系の法律は、学生時代比較的得意な分野だった。今となってはおぼろげな記憶だけれども、ケースワーカーのいる病院でなら、役所の手続きも助けてもらえるいうのを、医者の言葉で思い出した。  少しだけ安心して息をつくと、医者は優しく笑って言葉を続ける。 「とにかく、今は体を治すことに専念するんだ。 動けるようにならないと、シェルターに入ることもできないからね」 「そうですね……」  シェルターに入る決意は固まっている。けれども、どうしても不安があった。秀一さんが私を探し出して連れ戻そうとするのではないか。そのことが気に掛かって仕方なかった。  私のその気持ちを察したのか、医者がゆっくりと、安心させるような口調で語りかける。 「そんなに心配しないでおくれ。 もし君の旦那さんから問い合わせの電話が来ても、君はここには入院していないと伝えるように受付には伝えてある」  それを聞いて少し驚く。 「そんなことができるんですか?」  私の問いに、医者は少し困ったように笑う。 「実はね、君のような事情で病院に来る人もそれなりにいてね。外部からの問い合わせで所在を聞かれても、いないことにする患者のリストがあるんだよ」  この病院にそんなシステムがあるなんて知らなかった。でも、そういうシステムがあるのなら、私はここで体を治して、秀一さんの前から完全に姿を消すことができる。  とにかく今は、回復に専念しよう。  あの日救急車で病院に運ばれてから一年ほど経って、私は島根に引っ越していた。  シェルターに入れなかったわけではなく、シェルターには長期間入っていることができないので、家探しだとか、役所との手続きだとか、そういったことを片付けてから、東京から離れるために島根へと向かったのだ。  島根を逃げ場所にした理由は、そんなに多くない。  まずひとつめの理由としては、東京からのアクセスが悪いこと。夜行バスで来られることは来られるし、新幹線と在来線を乗り継いで来ることも可能だ。けれどもどちらにしても時間がかかるので、仕事が忙しい秀一さんがそう簡単に来られる場所ではないと思ったのだ。  そしてもうひとつの理由は、単純に秀一さんが都会から離れることを嫌がっていたからだ。仕事の都合で地方に行くことがあるといっても、新幹線か飛行機で行ける、アクセスの良い場所が多い。それに、なんだかんだでインフラの整っている都市部行くことが多いのだ。私が今住んでいるような、小さな寺社仏閣はあれども観光地とまではいかない、交通機関も一日に数本のバス程度しかないこの場所までは来ないだろうと思ったのだ。  島根へ引っ越すにあたって、私は生活保護の申請を役所へと出した。それと同時に、戸籍の追跡を止める手続きもしておいた。この手続きをするにあたって、学生時代に学んだ法律の知識が役に立った。もし私が法学科ではなく他の学科だったとしたら、ここまでの手続きのしかたもわからず途方に暮れていただろう。  生活保護を申請すれば、家賃と生活費、それに医療の補助を受けられる。けれども、引っ越し費用は自分で用意しなければいけないので、それをどうするかまた悩んだ。結果として、恵君がまた引っ越し代を出してくれたのだけれども、まさかシェルターに入った後も恵君と連絡が取れるとは思っていなかった。シェルターに入ったら、基本的に今までの人間関係は絶たなければいけないからだ。  恵君と連絡を取れた理由は、私が連絡先を知っていたからではなく、入院していた病院でお世話になったあの医者が、恵君の知り合いだったからだ。その事実に驚きはしたけれども、医者経由でやりとりをするのは安心感があったし、なにより、そこまでしてでも私のことを逃がしてくれようとしてくれた恵君には感謝しかない。  いつか恵君にお返しができる日が来るだろうか。その日が来ることはないのだろうなという思いはあるけれども、それでも、私は恵君と、湯島さんにいつか恩返しをしたいと思った。  島根で生活保護を受けてしばらく生活していたけれども、私は経済的に自立したかった。だから、住んでいるアパートから少し離れた所にあるお弁当屋さんでバイトをはじめた。このあたりには他にコンビニが無い。けれども、朝、出勤前にお弁当を買っていくお客さんはそれなりにいたし、お昼時には昼食をお弁当で済まそうという近所の主婦の人もよく来てくれた。  常連とも言えるその人達は、私が最近ここに引っ越してきたということは知っているけれども、引っ越してきた本当の理由は知らない。話す必要はないと思ったし、話すことで東京にいた頃のつらい思い出が甦るのがこわったのだ。  正直言えば、いまだに夜寝る時に、耳元で秀一さんの怒鳴り声が聞こえるように感じることもあるし、私を罵倒する秀一さんの夢を見ることもある。けれども、その夢から覚めるたび、私は心に誓うのだ。  絶対に、自力で生活できるようになるのだと。  そして、島根で暮らしはじめて、私は少しずつ、秀一さんからかけられた呪いが解けてきたような気がした。そう、私は今、生活保護を受けながらとはいえ、バイトをして自分ひとりで生活を成り立たせている。私ひとりで生活ができないなんていうのは、単なる決めつけだったのだ。  バイトでシフトに入っている時間も延びてきて、お給料も少しずつとはいえ増えてきて、生活保護費を返納する金額が増えてきた。この分なら、もうすぐ生活保護を打ち切っても生活していけそうだ。もっとも、医療費まではまかなえる自信がないので、医療保護だけは続けるつもりだけれども。  島根での生活が順調になってきた頃、お弁当屋さんにあたらしい常連さんができた。なんでも、このお弁当屋さんから少し離れた所にある神社の修理をしている大工さんとのことだった。  その大工さんは、毎日たくさんのお弁当を買っていくので、お昼時前にどれだけの数のお弁当が必要かお店に連絡を入れて予約をしてくれる。これは乗客だと、お店の女将さんも喜んでいた。  大工さんが、今日もお弁当を買いに来る。 「どうもー。お弁当の予約をしていた釈迦堂ですけれど」 「あ、釈迦堂さんこんにちはー。 お弁当の準備出来てますよ」 「いやはや、いつも助かります」  いつも来る常連の大工さん、釈迦堂さんは、人懐っこい笑顔を浮かべて、袋に入ったたくさんのお弁当を腕にかけたり、抱え込んだりして運んでいこうとする。そのさまがあまりにも危なっかしいので、私はつい、こう声を掛けてしまった。 「あの、お弁当を運ぶの手伝いましょうか? たしか、現場はそこの神社でしたよね」  私の声かけに、釈迦堂さんは驚いたような声を上げる。 「えっ? 手伝ってもらっちゃっていいんですか? あー、でも、結構重いから女の子に持たせるのもなぁ」  すこし困った顔をする釈迦堂さんを見て、思わず笑みがこぼれる。 「大丈夫ですよー。お弁当作るのも結構体力いるから、多少重いのも運べます」  そう言うと、釈迦堂さんは照れたように笑って腕に抱えていたお弁当の袋を私に差し出す。 「それじゃあ、お願いしていいですか?」 「はい、もちろんです」  それから、私は店の奥にいる女将さんに声を掛ける。 「すいません、お弁当の配達に行ってきます」 「そうだね、あの量ひとりで持っていくのは大変だ。 さんぽがてらゆっくり行っておいで」  女将さんの許可を得て、お店から出て釈迦堂さんと一緒に歩く。私の歩幅に合わせてくれているのだろうか、釈迦堂さんは随分とゆっくり歩いている。 「いや、本当に助かります」  はにかむ釈迦堂さんに、私もにこりと笑みを返す。 「いえいえ、でも、お弁当の買い出しはいつも釈迦堂さんが来てますけど、他の人は忙しいんですか?」  その質問に、釈迦堂さんは眉尻を下げて、少しおどけた口調で言う。 「実は、職人の間で俺が一番下っ端なんですよ。その分やる仕事が他の人に比べて少なめなのもあって、こういう雑用はよくやりますね」 「なるほど、そうなんですね」  大工さんの世界も、序列があって大変なのだなと思う。  釈迦堂さんの現場に着くまでの間、ゆっくり歩いておしゃべりをして、それは久しぶりに楽しい時間のように感じられた。  釈迦堂さんが買うお弁当を運ぶのを手伝ったあの日から、何度も同じようなことをすることが続き、そうしているうちに釈迦堂さんと少しずつ親しくなっていった。  けれども、秀一さんもはじめのうちはこんなふうに私に優しくしてくれていた。けれども最終的には私に暴力を振るうようになって、そのことを思い出すと、釈迦堂さんとあまり距離を詰められないような気がした。ただ、つかず離れずの距離感を保ち続けた。  そんなある日のこと、釈迦堂さんがいつものようにお弁当を買いに来て、少し寂しそうな、困ったような顔で私にこう言った。 「実は、しばらく現場を離れることになったんだ」 「えっ? それは……?」  現場を離れるというのはどういうことだろう。釈迦堂さんだけがなんらかの用事で離れるのか、それとも、あの神社の工事自体が止まるのか、どちらなのだろう。あの神社の工事は、まだしばらく終わりそうにないように見えたけれども。  私の疑問を察したのか、釈迦堂さんはお弁当を受け取りながら事情を説明する。 「実は、人家の修理に必要な資材が足りなくなって、いったん資材の確保に行かなきゃいけないんだ。 だから、資材が確保出来るまで、神社の工事はお休みだね」 「そうなんですか?」  いつものように釈迦堂さんと手分けしてお弁当を持って、工事中の神社までの道を歩く。「資材が確保できるまで、どれくらいかかるかわからないけど」 「……そうなのね」  どれくらいかかるかわからない。それを聞いて、寂しさがこみ上げてきた。しばらくの間釈迦堂さんに会えないと思うと、心にぽっかりと穴が開いたように感じられた。  ふと、釈迦堂さんが立ち止まり、私をじっと見て、真剣な顔をする。 「資材調達の休みが明けて、また工事がはじまって、神社の修理が終わったら、俺達はまた他の場所に行かなきゃいけない」  それを聞いて動揺する。あの神社が直ってしまったら、つまりは、私はもう釈迦堂さんに会えなくなってしまうのだ。 「あの、それは」  私がうまく言葉にできないでいると、釈迦堂さんがこう言葉を続ける。 「だから、もし君がよければだけれど、工事が終わった後、俺に付いてきてくれないか? 俺はこれからずっと、君と一緒にいたいんだ」  その言葉に、私はすぐには返せなかった。私も、釈迦堂さんとはこれからも仲良くしたいし、できる事なら毎日会いたい。けれども、秀一さんのことを思い出すと、容易に付いていくと答えることが、こわかった。釈迦堂さんはそんな人ではないと思いつつも、でも、万が一秀一さんの方な人だったらどうしようと、恐れが湧いてくるのだ。  こんな私の内心を、釈迦堂さんが知るよしもない。気づくこともない。だから釈迦堂さんは無邪気にこう言った。 「今すぐに答えを出すのは難しいと思う。 だから、資材の調達が終わって、またここに戻ってくる時までに、返事を考えていて欲しい」  そこまで話したところで、釈迦堂さんが働いている修理中の神社に辿り着いた。他の大工さんにお弁当を渡して、私はお店へと戻っていく。  私は、釈迦堂さんを信じたい。できれば一緒にいたい。けれども、そう思えば思うほど秀一さんのことが思い出される。私に何度もこぶしを振るって罵倒した秀一さんのことを思い出すと、釈迦堂さんもそういう人なのではないかと不安になってしまうのだ。  こんな不安を、誰にも話すことはできない。今住んでいるところは人と人の繋がりが強くて、私にとっては居心地が良いけれども、その反面、人の噂はすぐに広まってしまう。私が秀一さんから虐待を受けてこの地にやって来たなんていうことを、他の人には知られたくないのだ。  お店について、女将さんから声を掛けられる。 「どうしたんだい藍ちゃん。 なんか浮かない顔してるけど」 「実は、釈迦堂さんに、工事が終わった後も一緒にいたいから付いてきてくれないかって言われて……」  事情を説明すると、女将さんはにっこりと笑ってこう返してくる。 「へぇ、釈迦堂さんにねぇ。 釈迦堂さんは良い人そうだし、悪くないんじゃない? いつまでも独り身も寂しいでしょう」 「そ、うですね」  こうやって、周りの人からの評判が良い所が、秀一さんに似ている。釈迦堂さんを信じたい気持ちと、こわいという気持ちの間で、しばらく揺れ動いていた。  釈迦堂さんがお店に来なくなって二ヶ月ほど。その間、他の常連さんの対応をして忙しい日々を送っていたけれども、心の奥にずっと釈迦堂さんのことが引っかかっていた。  ほんとうに、またこのお店に来てくれるのだろうか。次はいつこのお店に来るのだろうか。そんなことが気に掛かっていた。  そしてその日は来た。 「お久しぶりです。お弁当の予約入れてたんだけど」 「お久しぶりです釈迦堂さん。 お弁当のご用意、できてますよー」  釈迦堂さんが、ここに戻ってきた。  釈迦堂さんの、付いてきて欲しいという言葉の返事はまだ決めかねているけれども、それでも、以前と同じ笑顔でお店に来てくれた釈迦堂さんを見てほっとしたし、うれしかった。私はこんなに、釈迦堂さんが来てくれることを楽しみにしていたのだ。  以前と同じように、釈迦堂さんと一緒に現場までお弁当を運ぶ。その道中で、釈迦堂さんはちらりと私を見てこう訊ねてきた。 「あの、付いてきて欲しいっていう話、お返事考えてくれた?」 「うふふ、どうでしょうねー」  明確な返事を返すことはできなかった。付いて行くにはまだ決心が固まっていないし、かといって、断っても、もうしばらく考えさせて欲しいと言っても、下手なことを言えば怒らせて殴られるのではないかとこわかったのだ。  今返した言葉だって、もしかしたら釈迦堂さんの神経を逆撫でしたかもしれない。少し身を固めながら歩いていると、釈迦堂さんは困ったように笑ってこう言った。 「まぁ、すぐには答え出せないよな。 一生がかかってるんだもんな。 まぁ、気が済むまで考えてくれていいから。 答えが出るまで、俺は待つよ」  殴られも怒鳴られもしなかった。やっぱり、釈迦堂さんは秀一さんのような人ではないのかもしれない。  それからしばらく、釈迦堂さんは以前と同じように毎日お弁当を買いに来て、私もお弁当を運ぶのを手伝った。こうして一緒にいると、答えを急かされるかと思ったけれども、釈迦堂さんは無理に答えを聞き出そうとはしなかった。ほんとうに、私の中で答えが決まるまで待つつもりのようだった。  今日も釈迦堂さんと一緒にお弁当を運ぶ。その道すがら、いつものようにおしゃべりをしている中で、私はぽつりとこう言った。 「実は私、弁護士になりたいんです」  そう、これは島根に引っ越してきて、自分ひとりで生活ができるようになって、ようやくまた、自分の目標を自覚できるようになったのだ。これを打ち明けて、釈迦堂さんはどんな反応をするだろう。反応次第で、私は釈迦堂さんへの答えをどうするか、判断するつもりだ。  この言葉を聞いて、釈迦堂さんは驚いた顔をして私にこう訊ねた。 「えっ? でも、大月さんは大学を卒業して何年経ってる?」  そいえば、何年経ったのだろう。改めて頭の中で卒業してからの年数を数える。もう六年はゆうに経っていた。  そのことを釈迦堂さんに言うと、釈迦堂さんは難しい顔をして私に言う。 「卒業から六年経ってるとなると、司法試験も学科試験から受けなきゃいけないよね。 そうなると、なかなか厳しいんじゃないかな」  ああ、この人も、私に目標を諦めろというのだろうか。私を手元に置きたいだけで、私の自由を奪うつもりなのだろうか。そう思うと、軽い失望が胸の中に広がった。  けれども、釈迦堂さんはこんな言葉を続けた。 「大学卒業後、ブランクがあって学科試験が大変かもしれないけど、まずはそこからがんばろう」 「えっ?」 「実は、自分で言うのもなんだけど、俺もそこそこ良い大学でてるんだ。 だから、学科の勉強でわからなくなったところとか、教えられると思う」  それから、自分もどの程度覚えてるか、参考書を見てみないとわからないけれど。といって明るく笑う。 「私のお勉強、手伝ってくれるの……?」  恐る恐るそう訊ねると、釈迦堂さんは胸を張ってこう答える。 「もちろんさ。だって、君は弁護士になるっていう目標があるんだろう? きっとそのために大学でがんばって勉強して、でも、なんかの理由で試験がうまく行かなくて、それでもまだ諦めてない。 俺は君の頑張りを応援したい」  その言葉に、私は驚きを隠せなかった。釈迦堂さんは、私の目標を受け入れてくれているのだ。そう、秀一さんとは違って……  けれども、私は勉強のための参考書を取り寄せることに戸惑いがあった。近所に本屋さんがないし、そうなると、参考書は通販で買うことになる。けれども、その通販の履歴で秀一さんに探し当てられることがこわいのだ。 「実は、参考書の通販をするのがこわくて……」  恐る恐るそう言うと、釈迦堂さんはためらいなくこう返した。 「俺がこの現場にいる間は、代わりに参考書の取り寄せとかやるよ。 なんていう本が欲しい?」  そう言って、釈迦堂さんはポケットからメモとペンを出す。私は遠慮がちに、三冊ほど参考書のタイトルを挙げた。すると、釈迦堂さんはすぐさまにそれをメモにって、ポケットにしまう。それから、すこし考える素振りを見せてから、こう訊ねてきた。 「司法試験を受けるってなると、参考書だけでなくて判例集とか六法全書とかも必要になると思うけど、それも取り寄せる?」 「えっ? あの、お願いできるなら」 「あと、俺の後輩で裁判官がいるから、そいつからもおすすめの参考書訊いてみようか」 「そこまで……ぜひお願いします」  どうして、どうして釈迦堂さんはここまで私に良くしてくれるのだろう。ここまで気を遣ってくれるなんて、逆になにか企んでいるのではないかと訝しがってしまうけれども、でも、釈迦堂さんはそんな人ではないと思いたかった。  それからしばらく。釈迦堂さんがいつものようにお店にお弁当を買いに来た。  あの時、私の代わりに参考書を取り寄せてくれると釈迦堂さんが言ってくれてからも、つかず離れずの関係は続いた。  けれども、この日、つかず離れずの関係は一歩先へと進展したように感じた。  釈迦堂さんが、約束通りに司法試験の参考書や判例集、六法全書を持ってやって来たのだ。  私の目の前に本が入った袋を出して、釈迦堂さんははにかんでこう言った。 「とりあえず、教えて貰った本と、後輩のお勧めの本を取り寄せてみたよ。一応確認してくれる? もしいらない本があったら、俺が引き取るから」  釈迦堂さんは確かに、私が提示した参考書を揃えてくれていた。それ以外にも頼んでいない参考書が入っていたけれども、これはきっと、裁判官をやっているというと言う後輩さんのおすすめだろう。  でも、取り寄せて貰ったのはいいけれど、これだけの本の代金を一度に払うだけの余裕が私にはない。そのことを素直に伝えると、釈迦堂さんは朗らかに笑う。 「うん。君がなにかのっぴきならない理由でここに引っ越してきたのは、なんとなく察してたんだよ。だからきっと、お金の工面も難しいと思う。 だから、参考書代は今後少しずつ返してくれれば良いから」  それから、神社の方の工事も長引きそうだし。と釈迦堂さんはおおらかなことを言ってくれる。  釈迦堂さんの言葉に、思わず混乱した。どうして釈迦堂さんが、ここまで私に良くしてくれるのかがわからないのだ。  少し混乱して、思い切って訊ねてみる。 「釈迦堂さんは、どうして私にこんなに良くしてくれるんですか」  すると、釈迦堂さんは一瞬俯いて、困ったような笑みを浮かべてこう答えた。 「なんでだろうな。俺にもわかんないんだよ。 ただ、君のことを放っておくことはできないと思ったんだ。 その根拠も、いまだにわからないんだけど」  そんなやりとりをしていると、お店の奥から女将さんの声が聞こえてきた。いつまでもここで話してないで、釈迦堂さんの現場にお弁当を持って行きなさいとのことだった。  袋に入った参考書を、店の奥の荷物置き場に一旦しまい、釈迦堂さんが買ったお弁当が入った袋を持って店を出る。現場に向かう途中、取り留めのない話をしている中で、はたと気づく。釈迦堂さんはこんなに私に良くしてくれているのに、私の過去のことを訊こうとはしないのだ。  興味が無い、というわけではないだろう。もしかしたら、詳しいことはわからないまでも、過去になにかあってここ島根に引っ越してきたということはなんとなく勘づいているのかもしれない。  歩きながら、お互い仕事上がりのあとにどこかで学科の勉強をしようだとか、司法試験にうかれるようにがんばろうだとか、そんな話をする。  時々、釈迦堂さんは寂しそうな顔で私の顔を見る。なんでそんな顔をするのだろう。もしかして、私が島根に引っ越してきた理由を知りたいのだろうか。  釈迦堂さんになら、私が東京で暮らしている間に起こったことを話しても良い気がしたけれども、なかなか言葉にできない。改めて言葉にして、あの凄惨な日々をありありと思い出したくないのだ。  ふと、釈迦堂さんが私をじっと見て言う。 「俺は、君の過去に何があったのかはわからない。 ただ、なんとなくだけれども、とてもつらい過去があったんじゃないかって思うんだ」  それを聞いてどきりとする。そう、釈迦堂さんの言うとおりなのだ。堪えかねるほどつらい出来事から逃げて、色々な人の手を借りながら逃げて、私は今ここにいる。釈迦堂さんはその事を責めるだろうか。  そう思っていると、釈迦堂さんは予想外のことを言った。 「つらい過去があったとして、たぶん、その過去を忘れるのはすごく難しいことなんだと思う。もしかしたら、そのつらいことで負った疵は、塞がることもないのかもしれない」  私は釈迦堂さんのことをじっと見つめる。釈迦堂さんは言葉を続ける。 「でも、君ももう、自分のために生きていいんだ」  ほんとうに、私は自分のために生きていいのだろうか。自分のために生きたいという思いは、ずっと抱えていた。でも、いざ他の人にそれを認められると戸惑ってしまうのだ。  私の戸惑いに気づいているのだろうか。釈迦堂さんは真剣な顔をしてさらに言う。 「もし君が自分のために生きたいというのなら、俺は最大限協力するから。 なんなら、俺のことを利用したっていいんだ」  それを聞いて、思わず涙が零れた。  秀一さんの元にいた時、私はずっと利用される側だった。そんな私に、自分を利用していいと言う人がいるなんて思っても見なかった。 「そんな利用するなんて」  そう。いくら釈迦堂さんが利用していいと言っても、私にはそれができないと思う。ただ利用するのではなく、協力関係を築きたいのだ。  それに、一方的に釈迦堂さんを利用するとなると、私も秀一さんのようになってしまうのではないかと思った。それだけは絶対に避けたいのだ。  けれども釈迦堂さんになら、この人になら甘えてもいいのかもしれないとほのかな希望を抱く。  そう。あの時釈迦堂さんに言われた言葉の答えを、付いてきて欲しいと言ったあの答えを、釈迦堂さんに伝えよう。付いてきて欲しいと言ったあの時の問いに。  私は、何年先になるかもわからないけれども、ずっと抱えていた目標を掴めたら貴方に付いていきます。
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