雪中花

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 しんしんと、雪が降りつもっていた。  この寒さのせいか、寺の境内も心なしか人がまばらで、不思議な静寂が辺りを包んでいる。腕時計を見ると、あなたとの待ち合わせ時間迄あと20分もあった。溜め息が真っ白な吐息になる。先刻から凍雲(いてぐも)の空を見つめてじっとしているので、痛いほどに爪先が凍えていた。  ふと思い立って、軒をかりていた山門から参道を登り始める。唐様式に似せた講堂の脇を回り、本堂へと向かう。指がかじかんでいる。動いていないと、体中が凍り付いてしまいそうだったので、本堂の前にある大きな香炉で暖を取ろうと思ったのだ。  本堂の前には、案の定誰もいなかった。獅子の頭を頂いた香炉は、誰にというわけでもなく甘やかな薫りをたてながら、ほそぼそといく筋もの煙を上げている。香炉のまわりだけ綺麗に雪が溶けていた。   ほっと顔をほころばせる。  冷えて真赤になった手をこすりあわせ、指先をその煙にさらした。薫りが鼻孔をくすぐるたび、体中が熱くなったような気がする。 白檀ーーーサンダルウッド。古代インドで媚薬として閨房に彩をそえたこの薫りが、どういう因果かホトケに捧げられている不思議。否、さほどの不思議ではないのかもしれない。男女結合像(ミトゥナ)を拝する文化のあるお国柄、ラマ教で言うところの第三の目(ターラ)女陰(ヨーニ)に通ずるともいうし。だから第三の目をもつ愛染明王は水商売の神様なのだと。……こんなこと、どこで聞いたのだろうか?  確かに閨房では「御陰(ミホト)」を拝んだかもしれない。  よからぬことを考えて、つい、一人で含み笑いしてしまった。 「やっぱりここにいたんだ」 「あ、ごめんなさい」  あなたが息せき切って走ってくるのを認めて、私は急いで香炉から離れた。 「おばさんには?」 「見つかってない。大丈夫」  あなたは2、3度深く息をして呼吸を整えると、ついと顔を上げ、にっこり笑った。 「じゃ、行こうか」 「うん」  ダウンコートの背を丸くして、あなたはすたすたと私の前を歩いていく。私はやや遅れて、その広い背中を見つめながらあなたの後を付いていくのが常だった。腕を組むこともなく手を握ることさえない私たちは、傍から見れば随分と素っ気ない二人に見えるだろうけれども、これがあなたと私のスタイルなのだった。あなたは決して照れ屋では無いけれど、人前では私に触れることをしない。私は私で、あなたに手を引かれて歩くより自分の意志であなたに付いて行っているのだと感じることが、何より嬉しかった。 「冬牡丹が見たいって?」  背を向けたままあなたが尋ねる。 「そうよ。今日辺りは人も少ないし、ゆっくり観れるかと思って」 「長谷寺というと、どこも牡丹で有名だな」 「え?」 「いや、去年の初夏に京都へ行ったからね」 「ああ……。京都の長谷寺も素晴らしい牡丹園があるわね」
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