短編「脱法」

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 夕方も終わる頃、ある女が花街に消えようとしていた。  花街には、我先に客の目を引かんとするように、華やかな衣装と化粧を身に纏い、店内から幾人かの娼婦が出てきている。花街は、女体の提供場として元来非合法である。  その非合法独特の空気感か、店裏などの路地に薬を売る者が住み着いている。それを買いに廃人、不良が住み着き、寄るに都合が良い娼館にその者達は消え、この花街に濁流を波立てるのだった。もはやこの花街は人欲の住処と化してしまった。女はそんな人欲の波に飲まれ、奥へとなだれていった。  もう夜にもなるというのに、女は家に帰らない。普段ならば、二人の子供が下校し、家で迎えるが仕事となっていたが、それを忘れるほどになっていたのは、つい最近この女は未亡人になったばかりだからである。夫は妻に専業主婦をさせるほど家計の支えを担っていた。その夫を亡くし、遺された子供の責任に一体どうしようと、頭を抱え放浪するうちに、この花街に紛れ込んだ次第であった。  花街はもう眩しくなり始めていた。どうしようかと暗雲低迷の悩む気持ちと裏腹に、娼婦の顔や店に華が咲き始めた。  いくら悩み歩いても解決、解消の良策は浮かぶはずがなく、女はどれだけ自分が身を粉にして働いても、とてもではないが、子供に満足させるだけの生活は送らせられないと、親としての責任が果たせない不甲斐なさ、少しばかりの悔しさ、最後には、諦めてしまおうかと思う絶望さえも感じていた。  諦めるーーとなると、子を捨て、育児放棄の犯罪を背負って生きることになる。もしくは心中の道ではあるが……。  女は、ともかく解決の手立ては見つからないのだからと思い、せめて気休めをしたいと、落ち着くような場所を歩こうと、煌々としたこの街路から抜けようとしたのである。本道は艶やかな娼婦と、眩しく光る店に阻まれて歩けない。静かな所を目指して、未亡人の女は脇道へ抜けた。  脇道に抜けてからまもなくのことであった。女は先ほどの本道とはまるで逆の、薄暗く重たい空気感を肌で感じていた。それの原因となったのは、無論、大の字を作る人間、壁を背に預ける人間、寒さを凌ぐように縮こまる人間などがいた為である。それらの人間はどうやら薬にやられてしまったようだった。  女はこの光景に呆れかえっていた。きっと背負うものがないんだわ…大事なもの一つ無いからこんな事ができるのよ…と思っていた。成れの果てとも言えるこの人間達に、女は呆れてはいたが、少し羨んでもいた。この人達のように捨てるものが何一つなければ、と。  歩いてもう少しでこの脇道から抜ける所であった。普通の歩道と、花街へ通じる脇道のちょうど境の角に、不思議な男がいた。痩せた体に病服を着た、髭が少々生えた顔色の悪い男である。  この花街に通じる脇道にいるからには、どうせ周りと同じ成れの果てと女は考えていたが、この男はどうだろう。病服と顔色から、どうやら病人らしい……。廃人にまみれたここに、病人が一人で、さらには人欲の住処である花街と、普通の歩道の間に居座っている状況に、女は戸惑っていたのである。普通の人間なのか、それならば、目の前にいる男は衰弱しているわけだから、今すぐにでも救急車を呼ばなければならない。しかし、花街側の人間ならば……、放っておいても誰も構うものはいない、と考えていたのである。  女は自分の事情を知らずのものとして、今はこの男を助けようと思う一心であった。 「大丈夫ですか? 辛いなら救急車をお呼びいたしましょうか? 」  この言葉に心配の色を含めてはいた。それを含めて行動したのも事実ではあるものの、女の心に一番にあったのは、溢れんばかりの充実感であった。それは、これからのことを考えるばかり、自分にこれといった親としての能力が見出せず、自己満足か、自己実現か、無意識下の適応規制が行なったものであった。 「……何だ? 」  男は答えた。眠ってはいたらしいのだが、浅いのかすぐに起きた。 「あの、大丈夫ですか? 救急車が要りますか? 」  先ほどと同じ質問をした女に、男はこう言った。 「そこに俺と同じような奴らがいるだろう。そいつらにはどうして声をかけない」 「それはあなたが病服を着てるからですよ。そんな服装では、誰でも心配にもなります」  この言葉は嘘であった。周りの人間は、どうせ薬がらみだろう。それを通報でもすれば、面倒なことになる。自己実現の相手であり手頃で、正当な理由があったから女は話しかけただけなのであった。 「……俺なら心配ないさ。もう手遅れらしいしな。診断されたんだ『もうすぐ死ぬ』んだってな。病院から抜け出してきたんだ。死ぬなら… …、気分良く死にたいよ。だから薬を貰いに来た」  女はこれを聞いて哀れとも思わず、それについて特に咎めようなどとも思っていなかったのである。ただ、この男がした行動に、女の心に、緩みができたのである。歪みとも言えるその緩みは、女の子供への関心を一部削いだ。それは、死にたくなるほど酷い状況なら、法さえもまたいでいいのだと言った男のせいであった。 「辛いでしょうね」  これは男に向けてではなく、女自身が言われたかった言葉である。死にたくなるような状況で、女は一つの壁を、人生最後の大きな壁を乗り切ったのである。 「… …薬ってどこに売ってます? 」  男は少し驚いて、花街へ通じる脇道へ指を刺した。 「ここまっすぐ行って向かいの店だ」  男の指は震えていた。女はそれを聞いてもう一歩で普通の歩道であった場所から振り返り、花街への脇道へ抜けた。  男の死への絶望と女の生きる絶望、一体どちらが辛いのか。ともかく、両者ともに救われたのは、最後の快感のみであった。  女は進んだ。店に入って 「薬をください。幸せの量、全部」  そう言った。
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