うそつき

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『うそつき』 その子は言った。 大きな目に涙をためて、けれど、その瞳に怒りを込めて・・・。 『うそつき!』 もう一度放たれたその言葉はさらに大きく、鋭かった。 怒りで身を震わせ、必死に涙を流すのをこらえるその姿を、僕は不謹慎にも美しいと思った。 その姿に目を奪われながら、けれど僕はそんなことを思っているなんて分からないように、そっと口を開く。 「・・・うそではないよ」 そう呟いて、僕は目が覚めた。 時々見る夢。 あれはもう遠い昔。 あの子のことは赤ん坊の頃から知っている。いや、お腹にいる時から。 あの子は、僕の可愛い弟。 母のお腹が少しずつ大きくなって、中で動くようになって、そして生まれて・・・。 生まれた日を覚えている。 とても天気の良い、暖かな春の日だった。 桜が咲き始め、人々が心を踊らして思わず外出したくなるような日だった。 そんな日に、あの子が生まれた。 可愛い、可愛い、僕の弟。 けれど、別れは訪れた。 両親の事情に口を出すことをゆるされない僕たち子どもは、親の決定に従うしかない。 僕は父に。そして弟は母に。 別れの日、泣いて喚いて僕から離れたくないとしがみついたあの子の姿が、今も忘れられない。 もっと僕が大きかったら。 もっと僕に力があったら。 僕はあの子を引き止められただろうか? けれど現実は非力な子ども。 僕たちはどうしようもない力によって離されることになった。 それから数年が過ぎたある日、僕たちは再会する。いたずら好きの神様によって。 僕が勤める中学校に、あの子が入学してきたのだ。 そんな偶然あるのだろうか? 僕はあの子の所在を知らなかった。知っていたら、こんなところに務めたりしなかった。 入学式であの子の顔を見た時、心臓が壊れるかと思うほど胸が脈打った。 顔から血の気が引き、身体が小刻みに震える。 それを同僚の先生方は、僕が初めての担任を持つことによる緊張だと思い、口々に励ましてくれた。 そんな僕とは違い、あの子は僕の前を素通りしていく。 あの子は僕を覚えていなかった。 小さかったからか、それともあまりにも辛くて忘れてしまったのか。 ともかく、あの子は僕の一生徒となった。 それでいいと思った。 僕のことなど覚えていなくていい。 僕とあの子はただの先生と生徒。 それでいい。 なのに、あの子の視線に熱がこもり出したのはいつからだっただろう。 あの子が3年になったあの暑い夏の日。 僕が顧問を務める美術部の、準備のためにいたあの狭い準備室に、まるで熱にうかされるように赤い顔をして現れたあの子は突然、僕に詰め寄った。 『先生、結婚するって本当?』 そんな噂があるのは知っていた。ただどうしても断れないお見合いをしただけだったが、思春期の子どもたちにとって、それは結婚と同等の意味を持つ。 どこから漏れたのか、僕がお見合いをしたことがいつの間にか生徒たちに広がっていた。 僕にとっては大した噂ではなかったので別段否定も訂正もしなかったが、その子はどういう訳か、わざわざそれを確かめに来た。担任も終わり、教科も受け持っていなかったというのに。 けれど、なんとなく予感はあった。あの子の視線に気がついたから。 初めは偶然だった。 ふと向けた視線の先にあの子がいた。 担任の頃から、随分と熱心に話を聞く子だとは思っていた。真面目なその態度に、兄として誇らしくも思った。けれどそれは、全ての先生に向けられたものではなかった。 年度が変わり、担任も教科担当からも外れたある日、偶然出会ったその視線から、僕はあの子の視線を気にするようになった。 もしかしたら、僕を見ている・・・? 僕たちが、かつて家族であったことを思い出したのだろうか? 最初はそう思った。 けれどあの子は僕に視線を向けるだけで、一向に話しかけては来なかった。他の生徒が僕に話しかけてきても、あの子はただじっと、少し離れたところから僕を見ていた。 そしてそのまま時だけが過ぎ、あの暑い日になった。
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