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「ねえ、玉本くん、僕は君の物になってみたい。無理だろうか」
目の前の人が、当たり前みたいな顔で吐く言葉の意味をあまり考えたくなくて、いつも持ち歩いている本のことを考えていた。
――短編集に入ってる『柘榴』、最後のあたりがすごく好きなんだよな。
ホラーというより伝奇小説と呼びたくなる、好きな作家の初期短編集だ。
『与えられるまま、柘榴を食べた。割れた断面は宝石のつぶのようで、赤から白んだ透明へと色が淡くなる。冷たくつやつやとしたその実を、少しずつ与えられていた』
柘榴の木のあるあばら家に嵐を避けて入った男が、一人の女と出会うという話だ。
――文庫、傷んできたから、買い直そうか。
叩きつけるような雨も風も止まないあばら家の中に閉じ込められ、女と男は寒さをしのぐように、嵐の恐怖を宥め合うように睦み合う。
「君の一言で揺らぐ自分になりたい。君が他者に払っている敬意と違う場所にいたい。所有されたい。大事にしまわれたり磨かれたりするんじゃなく、君の手元で粗雑に扱われたり、打ち捨てられたりしてみたい」
聞かされる声の意味は無視して、俺は本の言葉に逃げ込む。
『柘榴』の続きでは、眠って、目覚めた後も終わらない嵐に、男が空腹を覚える。女は男に、柘榴を与える。
止まない雨の中では、徐々に時間が分からなくなっていく。
『あかくかたい果皮が割れて、植物らしく薄く黄色い断面を晒す。その狭間にある、美しい果肉を何度となく噛み潰した。酸っぱく、うす甘く、種の渋さが舌を微かな力で絞る。』
思い出していた言葉に、目の前にいる人の声が重なる。少し掠れた、低めの声。
「玉本くん、君の物になれたらきっと、君の視線や些細な言葉一つで、僕はボロボロになってしまえるんだろうね」
そう言ってソフトケースから煙草を抜き出し、薄い唇に挟んで火を点けた。人に訊かずに煙草を吸う。そういうところが、好きじゃない。
『食べれば食べるほど減っていくのに、果実は残骸へと化していくのに、その最期までが美しかった。』
「あの、先輩」
もう聞いていたくなくて、声をかける。頭の中では、言われた言葉を塗りつぶすみたいに、ずっと小説の言葉を思い起こしていた。
『美しかったのに、すべて果肉を食べ、口の中で唾液に塗れてひしゃげてふやけ、汚らしく形を変えた種をすべて吐き出してしまえば、果皮も種も、やはり残骸でしかなかったのだ。』
目の前にいる先輩は、深く煙を吸い込んで、くすんだ煙と一緒に言葉を吐いた。
「僕は君に恋をしているんだ。玉本 汀くん」
「…………先輩、黙ってくれませんか」
俺はポケットの中に突っ込んである文庫本を、無意識に服の上から触った。
『食べずにおれたら、ずっと美しかったものを、それでもやはり、与えられれば抗いもせず、すっかり食べつくしてしまった。』
その話の最後、雨が止み、あばら家の戸を開け放って振り返ると、そこには柘榴の皮と種しか残っていない。
――あの本で、男が食べたのは、柘榴だったのかな。
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