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「……先輩、怖いです」
俺は目を閉じた。先輩が、声を出さずにそっと笑う気配がした。
「うん、怖がらせてる。君の感情を揺らしたい。言葉で、君の中に入りたいから」
先輩は、日本や中国を舞台にした伝奇小説を書いてる。怖くて、残酷で、退廃的で、淫らで、でもきれいで寂しい。
「ねえ、玉本くん。君は僕を名前で呼ばないね」
俺は黙っていた。
「どうして?」
どうして? よくわからない。先輩は、元々このサークルに残っているべきじゃないはずだ。留年浪人共にしているから正確な年も学年も知らないが、ミヒカさんより上の学年なんだから追い出しコンパも済んでいる。
だから、わざわざ名前を覚える必要なんてない。
「僕は君の名前がとても好きだ。汀、水と陸地の接する場所。境界の名前だ」
覚える必要なんてないけれど、先輩の名前は覚えている。この人は本名で本を書いているからだ。
色川 融。
先輩らしい、名前だと思う。だけど、俺はこの人の名前を呼びたくない。
「玉本くん」
ねだるような響きの声に、何か返事をせずに済んでよかった。
「お待たせ!」
息を切らしたミヒカさんが、ドーナツと紅茶を持って駆け込んできた。
「残念」
そう笑うと、先輩は、胸ポケットからUSBを取り出して机の上に置いた。
「USB、今度返しにおいで」
データのコピーさえ取ればすぐ返せるのに、先輩はそれを待たずに部屋を出て行ってしまった。
呼び止めようと口を開きかけて、噤んだ。先輩の名前なんて、俺は呼びたくない。
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