蕩く

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 テーブルにはビーツのスープと赤ワイン、ステーキが並べられていた。ご丁寧にステーキには人参のグラッセとバターコーンまで添えられている。 「おおー、ここまでくるともはや食人記念パーティーだな。鮮血とミルクの味噌汁に鮮血酒、人肉焼きなんてほぼレア状態じゃん。申し訳程度の野菜がお邪魔に見えるくらいには全てがグロい。さすがだわー」  彼女を茶化しながら席に着く。彼女はこちらに背を向け、鉄製のフライパンを濡れたシンクの中に置いた。じゅう、と音がして鉄は急激に冷えていく。思わず「ちょっとちょっと、乱暴すぎねえ?」と呟いてしまったが、彼女は無視を決め込んだ。おーい、そういうところだぞー、と再び小言が零れそうになって、しかし寸でのところで何とか呑み込む。  食器棚の前、両手に形の違うグラスをそれぞれ持つ彼女はどちらにするか考えあぐねているようだった。 「んー、左手のほうがいいんじゃねえ? きょうはそっちのが似合うと思うよ。シンプルでかえって映える」  彼女は左手のグラスから目を逸らさずに「こっちにしよっかな」と呟き、右手のそれを食器棚にしまう。席に着き、端にグラスを置いた彼女は続いてボトルを抱えると不慣れな手つきで無理矢理オープナーをねじ込んでいった。どうにも角度が悪い。腕力でやっつけようとしているようだが、そのやり方ではコルクが割れていく一方で、おそらく開いたころには木屑入りワインになっているだろう。 「待て待て、違うって、こう、もっとしっかり奥までさあ……だから違う違う、もっと深く入れろって……あと二センチは絶対……あー、ほら言わんこっちゃない、途中で欠けちゃってんじゃん。アイスピックかなんかない? 多少屑が入るのは仕方ないとして、もう掘った方が早いだろ、それだと」  彼女がわかりやすく肩を落としている。栓と格闘しているうち、気づけばスープもステーキもすっかり冷めてしまっていた。 「……あーあ。結局なんにもうまくできないや」  彼女が呟く。  そうだなあ、とオレが返事をする。この声が彼女へ届くことはない。  彼女が廊下の奥に目線を送る。浴槽で死んでいるオレのことを思い出しているのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。「君のこと、食べてみたいなあ」。蕩けそうな笑顔でそう言ったあのときの彼女の殺意を伴う甘やかな食欲からオレが逃げ切る手段など、結局のところは存在しなかった。  オレの肉体はどこも欠けることなくいまだ湯船に浮かび、しかしオレは誰にも気づかれることなくいまだこの部屋を彷徨っている。そのことを彼女は知らない。
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