丸か、バツか、夜か。

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丸か、バツか、夜か。

『起立、お願いします。』 「お願ぁーいしまーぁすぅ。」  4限目の教室は微睡んでいる。先生も生徒も空気も全てが重たるしく、また春の日差しのようにほのぼのしている。目の下がたるんでいる先生は、甲高い声を出し、重たくチョークを手に取り日付を黒板に書く。ノートを開く音が聞こえる。授業が始まってしまったみたいだ。 小学校6年生の時に僕は中学受験をした。周りの奴らよりも頭ができているのは自分でも気づいていたけど、こんなにとは思わなかった。模試を受けた 時もその学校を受ける人の中で10位以内には入っていたし、90%合格 できるだろうと言ってもらったりしていた。そんな僕が落ちた。単純な ミスばかりが多く、塾の先生も僕に何も声をかけなかった。原因は分からない。でも、今公立の学校で3位くらいを彷徨っているから受験に落ちたことを引きずってはいない。だが、僕は気に入らなかった。時代遅れの制服、汚い校舎、何を考えているか分からない馬鹿な同級生。特にこの授業は格別に嫌だった。クラスで一番頭の良い僕を先生はすぐに指すし、隣の子に毎時間ノートを 舐めるように見られる。きっと今回の授業も僕が主役みたいなものだ。 つまらない。つまらない。つまらない。つまらない。ツマラナイ。 全部つまらない。体育だってそこそこできるし、美術も家庭科も技術も昔から 折り紙を飽きるほどやっていた手先のいい指が何でもこなしてくれた。オール5も何度見たか分からない。  窓の外を見る。校舎で一年生がサッカーをしている。僕たちは2年生だから バスケだ。もう一度窓の外を見る。もうすぐ梅雨の時期がやってくるのを 知らないようなすっきりした空が広がる。遠くのビル群を見つめる。あそこに働いている人も僕のことを見ているかもしれない。その目が僕を羨んでいるのか、下に見下しているかは分からない。結局僕には関係のないことだ。 あそこのビルの下にある暗いマンホールが吹っ飛んだらどうなるんだろう。 ここまで被害が来るのかな。そうしたら学校来なくて良いかな。この時間帯だと親は仕事だから、マンションの最上階の僕の家のバルコニーで少し早めの 花火をしよう。煙たいのが肺に入る時一番生きててよかったと思うかもしれない。そのあとは最近できた駅前のドーナツ屋に行こう。それか近くのタリーズでカフェオレを飲もう。そこでおやつのケーキを買っても良いかもしれない。 自由な時間。 自遊な時間。今日も、次の朝も、その次の朝も、その次も、 自分の思った通りの予定が過ぎて行けば良いのに。結局夜になれば家に人 は居るし、起きても居る。別に親が嫌なんじゃない。孤独な時間を求めていたのだ。最新型のスマホで見たYouTubeのおしゃれな人のモーニングルーティンのような生活を求めていた。先週、初めて買った漫画に夜の美しさがあった。小学生のときから毎日9時ごろには寝て5時に起きていた僕がその夜に 憧れないはずがない。僕が憧れていた夜はきっと、ずっと、遠い。大人になって一人暮らしをしたとしても毎日8時間睡眠のサイクルは止まってくれないだろう。             ああ、       夜に  溺れたい。 沖縄の青々した海を漂う煌びやかすぎる魚のように夜に溺れたい。暗い世界に 迷い込みたい。歌舞伎町までは行かないけれど、危険な匂いの夜に誘われたい僕はこの狭い檻のような監獄のような教室にいた。年頃の女子のシーブリーズと汗臭い体育会系の男子の中に挟まれた、柔軟剤の僕。この狭い世界に一人ぼっちな気がした。いわゆる都会というこの街は五月蝿い。騒がしいこの世界をビルや学校が閉じ込めているようだった。僕たちは、閉じ込められていた。 「はい、じゃあ諸星くん。p57の問3を黒板に書いてください。」 「、、、、、はい。」 くぐもった声が教室全体に吸収されてしまう。重たい腰を上げて僕はみんなの 机にかかっている貧相なリュックの紐を踏まないようにそろそろ歩く。 黒板についたときに気づいた。僕は問3をやっていなかったのだ。 やってしまったと思ったが、近くで問2を解いていた夏川のノートがペラっと こちらを向いていた。見たくもない財布を見せられたようだったが、こいつも同じ授業を受けているから問3を解き終わっていた。ラッキー。横目で淡泊なノートの問3を見る。よし、大丈夫何とか乗り過ごした。白いチョークが爪の間に挟まって少し不快だったがクラスで僕の次くらいに頭のいい夏川ならば 確実にあっているだろう。先生が解説を交えながら黒板に丸や補足を付け足していく。ついに問3が書いてあるところを先生がゆっくり見た。大丈夫と心 を落ち着かせていると 『ここ、諸星くんだっけ、書いてくれたの。』 よほど素晴らしい答えだったのだろうか。僕は自信満々の声で「はい。」 と答えた。すると先生が眼鏡ごしに見える薄い眉を眉間にグイッと寄せた。 『これ、どこのページから持ってきたのよ。教科書の最後の方の夏目漱石の ”こゝろ”じゃないのかしら。どうしたのよ、今やっているのは古文よ。』 足の先から脳が一気に震えた。熱くなった。その後急激に冷えた。 目の端が痙攣していた気がした。どういうことだ。どういうことだ。 何が起きた。何が起きた。先程まで監獄だった教室が6歳の時に見に行った 新喜劇のように笑いがそこらじゅうから聞こえる。ハッと思い問3の不正解の 答えを書いていた夏川をみる。夏川を見るために作られたような席配置の おかげでくっきり見えた。夏川はずっと前から僕を見ていたような眼差しを こちらに向ける。目があった。その瞬間に夏川は先程の先生と真逆の眉間で 口の左端を誇らしげに上げていた。意味がわからなかった。お前も間違っているはずだろう。もう先生が答えを書き始めている。きっと違っているはずだ。 『はい、この答えは・・・』 クラスメイトが僕に見せつけるがごとく赤丸を大きめにつけているのが分かった。そんなことはもう、どうでもよかった。とにかく夏川だけを見ていた。 ペンケースから赤ボールペンを出して先端をノックする。インクのついたボールが剥き出しになる。徐々にノートに手が近づいている。机に手が触れた。 夏川はこちらを見ながら実に大胆に丸をつけた。また口角を上げた。 写真撮影の時の笑顔のそれとは違う口のあげかた。確実に僕を馬鹿にしている。一瞬ノートに視線を落とした夏川はもう一度力を込めたままの手で 丸をつけた。
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