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追憶
覚えていらっしゃいますか。
私が泡となって消えたあの日のことを。
貴方はそれを陸の上から見下ろしていました。
からだがしゅわしゅわと音を立て、少しずつ海水に溶けていくのを感じながら私もまた、貴方のことを見つめていました。最期まで真実を伝えずに。言葉を持たない私は、人間にはなれずにおしまいになったのでした。
私は痛みから解放され、神の元へと旅立ちました。それでよかったのだと今では思います。貴方をあの日、嵐の波間から救ったことなど、伝えるべくもないということを。
私は傲慢でした。
命を救った女を間違えるような男に、何を理解させたかったのか。
真実を伝えたところで、それがどうだというのか。
神は私にそれを諭したのでしょう。
泡と消えていく私を、貴方はただ見つめているだけでした。
言葉などそこに必要はなかった。なぜなら私は、貴方の愛する人ではなかったから。
幾年月が経ったでしょう。
私は再び海の泡として生まれ変わりました。
姉妹とともに波間を漂ううちに、一人はぐれた私。
私のあいまいなからだは豪華な客船の航跡と合流しました。船はぐんぐんと進み、海に白い道を残していきます。私はその泡たちに揉まれ、翻弄され、沈んだり浮かび上がったりしているうちに、見つけたのです。
甲板から夕闇の空に交じっていく海をじっと見つめていたのは、紛れもなく貴方の顔でした。皺が刻まれ、髪を白くし、背格好も小さくなった貴方がそこに居ました。
夕陽を溶かして真っ赤になりやがて濃紺色に染まっていく海に、小さな呟きが沁みこんでいきます。
「あの時、もっと早くに思い出していれば。貴女を失わずに済んだものを」
私は。
私はここにいる。
貴方は、覚えててくださった。
ああ、その言葉がどんなにか私のからだを暖めてくれたことでしょう。でも、わたしはやっぱり何も伝えられないのです。
わたしは、泡だから。
貴方の進むその道の痕に、わたしはずっと居ます。
貴方の幸を祈りながら。
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