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メアリーは夕立に消えた
メアリーは消えた。
ある夏の夕方、激しい夕立が降った後に彼女は突如として居なくなった。
彼女を慕っていた子供達はとうに鬼籍に入っている。彼女はそうやって幾人もの教え子を見送りながら郊外の小さな一軒家で一人暮らしをしていた。
家の中は飾り気がなく殺風景だった、と時折野菜や卵を差し入れがてら様子を見に行っていた近所の農夫は語った。
持病の関節リウマチが悪化してここ数年は家周りだけの生活だったメアリーだが、来客となれば、必ず白い襟にアイロンのかかったブラウスにプリーツの効いた丈の長いスカート、よく磨かれた革のショートブーツという出立ちで出迎えることを怠らなかった。その矍鑠とした姿を見れば、若かりし頃の彼女を主人公にした書物を読んだ近所の子供達が、「先生!」と呼びかけるのも至極当然のことだったろう。
「もうわたくしは先生ではないのです。メアリーとお呼びなさい」
怒りっぽいわけではないのだろうが、笑うことの少ないメアリーがぴしゃりと言うと子供達は一瞬首を竦めた。だがすぐに気を取り直して、
「はい、メアリー。今日も鞄見せてくれる?」
と、彼女の手を取ってゆっくりと小さなキッチンへ連れて行った。例の不思議な鞄から今日は何を取り出してくれるのかとワクワクする気持ちの方が大きかったのだ。
「面白いものなど何もないと言っているのに」
笑わないメアリーは、それでもカウンターの隅から大きくて黒いがま口鞄を引き寄せ、子供達に何やら不思議で素敵なものを見せてくれたのだという。
「中身は内緒。せんせ…メアリーとの約束だから」
幼い子供達は、決して約束を破ることはなかった。
「大変だ、こりゃ一雨来るぞ」
農夫が急いで鶏を納屋に追い立てた途端に、ザアアアっと大粒の雨が降ってきたある夏の日の夕方のことだった。窓ガラスが割れそうなほどの勢いに、農夫はふと彼女の家のことが気になった。
少し雨足が弱まったら様子を見に行こうか。農夫はちら、と畑の向こうに目を遣った。
その時、黒いものが雨の中を空へ空へと舞い上がっていくのが見えたという。
(なんだありゃあ)
大きなごみか古びた納屋の道具だと思った、農夫は言った。そりゃあそうだろう。まさか人間が、傘を広げて飛ぶなんて思う筈もない。
夕立が止んで太陽が西にゆっくり沈む頃、農夫はメアリーの家を訪れた。彼女の家からは三つのものが消えていた。
キッチンカウンターにあった鞄、立て掛けてあった黒いこうもり傘。そしてメアリー。
夕立がメアリーを連れて行ってしまったのか、メアリーが夕立を引き連れて行ったのか。子供達は何か知っていたようだが、農夫には誰も何も伝えなかったため、そのままメアリーのことは人々の記憶から消えてしまった。
たくさんの不思議を我々に見せてくれた彼女を知る者は、もう誰も居ない。
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