日向と猫

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日向と猫

おとみさんはメスの三毛猫で、何歳か分からないけど、毛の艶加減とか動きの鈍さからしたら結構な年なんじゃないかって思う。 誰かに飼われているのかそれともノラなのか、それすら定かじゃない。 彼女をおとみさんと呼んだのは死んだぼくのおばあちゃんに雰囲気が似てたからで、本当の名前は何なのか、そもそも名前があるのか分からない。 おとみさんは太っている。手を内側に入れるように蹲っていると、大福もちみたいにまんまるだ。 じっと見てるとぎゅーっと抱きしめたくなるけど、おとみさんは触られるのが好きじゃないみたいで、近くに座っていても嫌がらないのに手を伸ばすと逃げてしまう。 だから、ぼくとおとみさんは並んで座ってた。 空き地の奥に置かれた、薄汚れた白い土嚢に腰を下ろして。 声優になりたくて東京の専門学校に入った。 けど……入りたかった事務所のオーディションに合格出来ずに卒業を迎えて、その後は養成所に所属。半年ごとに行われる進級試験を2度ほどパスしたけど、バイト先でトラブってゴタゴタしてるうちに3度目の試験は落ちてしまって、またゼロからやり直しという脱力感、虚無感に耐えきれず、しっぽを巻いて地元に戻ってきたってわけ。 さくっとまとめりゃ数行で終わる経歴。しかもカッコ良くもなんともない。声優の専門学校出なんて普通の就職じゃ何の役にも立たないどころか負の遺産でしかなくて、”普通”のことも出来ない落ちこぼれがなけなしの誇りさえなくしてただ生きてるだけっていう……もう、しんどさしかないぼくの人生。 親はため息ばかりだ。そりゃそうだ。専門学校って無駄に高いし、生活費の仕送りまでしたのに何も出来ない無能のまま息子が出戻ってきたんだから。 「早く仕事を探しなさいよ」 それ以上何も言わずにいてくれるだけ、ぼくは恵まれてるかもしれない。親不孝者だって泣かれたりとか、ボロカスに言われたりとか、そんなのはなかった。ただため息をつかれただけで。 東京は何もかも高いし、他に頼れる人も場所もないから戻ってくるしかなかったんだけど、戻ってきたらきたで「声優になるとかでかいこと言ってたくせに」という声なき他人の目線に息の根を止められそうになって、ちょっとコンビニに行くのも身を縮めるようにしてた。 みんなが嘲笑っているように感じた。 何の価値もないやつと、下に見られてるって。 自分の部屋に閉じこもって針のように感じる視線から身を守る方法もないではなかったけど、やっぱり親に申し訳ないって気持ちが勝ってたから早く働かなきゃいけないって職安にも出かけた。 内心じゃ、もう誰もぼくを知らない所へ行って誰にも注目されない自分のまま、ひっそり生きてたいって願ってたけど。 この空き地は、そんな職探しの合間に見つけた。 職安の帰りの電車で居眠りして隣の駅まで行っちゃって、ふとした思い付きでその駅の改札を出た。 隣の駅なのに降りたことはないし、天気が良かったからひと駅分の距離くらい散歩も悪くないと思って。 ぼくの実家がある住宅地の隣はかなり古い集落だった。建物はどれも古民家の風情で、道幅は車の行き違いが難しいくらい狭く、「あそこは通りたくない」とうちの親がよく言ってた。 人が住んでるはずなのに人気が全然ない。 まるでパラレルワールドにタイムスリップしたみたいだ、なんて妄想しながら春の陽気に霞む路地を自宅方面へ歩いてたら、削りかけの山の斜面を背にした小さな空き地に猫が一匹、まるでそこにポンと置かれたように丸くなっていた。 なんでそんなに惹きつけられたのか……猫なんて別に珍しくないのに。 でもその猫をまあるく包む何かが、ぼくに呼びかけた。こっちにおいでって。 ゆっくり近づいていくと、居眠りをしてるみたいだった猫がうすく目を開けた。逃げてしまうかなと思って足を止めると、猫はまた目を閉じて、そのままじっと静かにしていた。 まるで笑ってるみたいな顔だ。やわらかなダブリューみたいな口。春の日差しを受け止めるふわふわの毛が、すごく心地よさそうで……そっと手を伸ばしたら、その体に触れるか触れないかのところで猫が立ち上がり、音もなく歩いて空き地の隅から隣にある家の裏手の方へ入って行ってしまった。 残念だった。触ろうとしなければ良かったと後悔して、さっきまで猫がうずくまっていた土嚢の上に腰を下ろした。 しんと不思議な静けさがぼくの周りに広がった。車も人も通らず、身じろいだ足の下の砂利が立てる音が際立つくらい静かなのに、どこかで何かが動いてる気配がする。それは目に見えないし触れることも出来ないのに力強くて、ぼくは目を閉じて鼻から息を吸い込み、声なき声を聞くように耳を澄ませた。 春だ── 遠くで鳥が鳴いている。 ふと、視線を感じて目を開けた。 さっきの猫がいつの間にか戻って来て、ぼくを見上げてた。 「こんにちは」 何か言った方がいい気がしてそう口に出したものの、声にしてしまえばバカバカしく、恥ずかしくなった。猫はゆっくり瞬きをするように目をつぶって、それから俺が座ってる土嚢の隣へひょいと飛び上がって、そこでまた丸く蹲った。 その姿が、縁側に背を丸めて座って洗濯物を畳んでたおばあちゃんを思い出させた。その窓はいつも開け放たれてて、近所の人がふいに訪れては「おとみさん」と呼び掛けてた、そんな情景も一緒に。 「おとみさん」 隣へ呼びかけると、猫はまたゆっくりぼくを見上げ、笑ったみたいに目を閉じた。 その顔を見たとき、なんだか泣きたくなったんだ。 おばあちゃんがぼくに笑いかけてくれたたくさんの日々を思い出して。 中学に入ってからはあまり行かなくなってたおばあちゃんち。 それまでは学校帰りにしょっちゅう寄って、縁側で洗濯物を畳んでるおばあちゃんに色んな話をしたっけ。 ぼくが一回好きだといったらずっと買って置いてくれてたバニラの棒アイスを食べながら、今考えたらおばあちゃんが聞いても何も面白くなかっただろうどうでもいい話をいっぱいした。 いつも笑って聞いてくれてたおばあちゃん。 ぼくが可愛くて仕方がないって顔で、楽しそうに── 「ふ…っ……」 涙が溢れてきて、明るくのどかな春の景色が歪んで見えなくなった。 おばあちゃんはぼくが東京に出てる間に死んじゃって、お葬式には出たのにおばあちゃんをこんな風に思い出すこともなくて。 ”東京に住んでいるぼく”が外からどう見えるかばっか気にしてた。 ぼくはいつからこんなになった? おばあちゃんが大事にしてくれたぼくは、今はこんなになっちゃったよ。誰にも気にかけてもらえない、つまんないやつになっちゃったよ。こんな風にはなりたくなかったよ。ぼくだって、輝きたかった── どこにも居場所がない。 誰にも必要とされてない。 だってぼくが一番そう思ってるんだ。ぼくは平凡で役立たずで誰にとっても大事じゃないって……! なんておかしな光景だろう。 春の平和な、猫がひなたぼっこする空き地で、鼻水まで垂らしながら泣いてるぼく。 もう顔を拭うこともせずに隣の猫を見たら、やっぱり笑った顔で僕を見上げてた。 泣いて、泣いて、泣いて── 変なやつに見えるとかもうどうでも良くて、おとみさんがそのまんまでいいよって笑ってくれてるみたいに見えて、こんなぼくがこのまんまでいいわけないじゃんって、泣けて、泣けて── なんてかっこ悪いんだろうって……おとみさんの笑ってる顔を見てたら、あぁかっこ悪いなあ、ぼくはどうしようもなくかっこ悪いなあってなんべんも思って……それで……泣き過ぎで目がしみて、上着の袖で顔を拭った。手で拭ったら、洗うとこがないし。 「あ~……ダッサ……」 呟いたら、おとみさんが薄目を開けてまるで「ナー」と鳴いたみたいに口を開けた。声は出てなかったけど。 「おとみさんも、ダサいと思うよね」 また目をつぶって、笑った顔。それでいいよって、言ったみたいに。 ぼくは、はーっと長く長く息を吐いて、そのまま春の日向に猫と座っていた。 車も人も通らず、遠く微かに電車が走る音がしてる。 萌え出ずる力を含んだ暖かい空気が空き地に充満し、ぼくを押してくる。 ちっぽけなぼくにお構いなく、生きろ生きろと押してくる。 やがておとみさんはむくっと立ち上がり、トコトコと空き地を出て行った。 ぼくは白くかすんだ空を見上げて息を吸いこんだ。 高い高い場所を飛行機が飛んでいた。 終
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