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02.
バイトを終えて僕が帰宅したのは多くの家庭が夕食時になる十九時だった。バイトは週五日勤務だが、大学の講義がある平日は帰りが日付を超える手前になる。あとは土日に昼頃フルタイムでシフトを入れてもらっているのだ。もちろん長期休暇は稼ぎ時で、家の事情を知っている店長はシフトに少しでも入れるように調整してくれていた。タカユキさんの休日は日曜日と月曜日だと聞いているが、今時土日ではない会社も珍しくはないだろう。
キッチンに立ち、夕飯を作りながら(一人なのでレトルトだが)僕はそろそろ決行に移る時だろうと決断すると、鍋の火加減を調整して、スマホを片手に取った。ホーム画面に並ぶ多くのアプリのうちから愛用のSNSアプリをタップすると、彼とのチャットを開いた。この時間帯ならちょうど帰りの電車に揺られている頃のはずだ。
<お仕事お疲れ様です。私はいま夜ご飯のシチューを作ってます!タカユキさんはもうお家に着きましたか?>
もちろんシチューなど作っていないのだが、ここは女子力をアピールするための嘘だ。数分してタカユキさんからの返信があった。
<お疲れ様。今は電車で帰ってる途中です。リンさんの作ったシチュー俺も食べたいな笑>
<それとオススメされたパスタめちゃくちゃ美味しかったです!教えてくれてありがとう。俺も何かお返しにオススメ出来るもの教えたいんだけど…好きな食べ物とかありますか?>
シチューの話題から連投で送られてきたメッセージに僕は「よし!」と声に出してガッツポーズを取った。話をどう切り出すか迷っていたのだが、彼のおかげで自然な流れで話し出せるようになった。
<人様に食べさせられるような腕前ではないですよ(/ω\)パスタ気に入ってもらえてよかったです!お返しなんて全然大丈夫なんですが…実は来週の金曜日が誕生日なんです。だからオススメのケーキ屋さんってありますか?>
僕とタカユキさんは同じ都内に住んでいることが判明しているのだ。ケーキ屋を教えて欲しいと言うのも何らおかしなことではない。頼む、食いついてくれ…!と心の中で祈っているとすぐに返信があった。
<誕生日!?もっと早く言ってくれればよかったのに…!何かプレゼント贈りますよ。もし欲しいものがあれば、URL送ってくださいね>
「いいぞ、フウヤ!このまま押せ!僕の時代がそこまで来てる!」
キッチンで一人高揚する気分を抑えきれないまま叫びながら、メモ帳に前々から用意していたURLをメッセージに貼り付けた。もちろんお礼の言葉と、遠慮しながらも少しのお願いアピールをするセリフも忘れずに送った。URL先の商品はブランド物の香水で、そこそこ、いや、かなり高値の品だった。今までの相手ならばもう少し値段を低めに見積もっていたが、タカユキさんならば承諾してくれるのではないだろうかと期待していた。
数分間はメッセージが止まったままだった。既読は付いているようだし、URL先の商品を見て考えあぐねいているのかもしれなかった。ここで金銭目的だと発覚し、冷められたら縁を切られるのは間違いないのだ。大胆に行動しすぎただろうかと不安になりながら、鍋で温めていたレトルトのカレーの封を切っているとようやくメッセージが返ってきた。僕は急いでチャットを開き、彼のメッセージに瞠目した。
<注文しておきました。来週の金曜日にいつものコンビニで受け取ってくださいね>
歓喜の声を上げるとその場で一回転し、タカユキさんに感謝を込めた(本当に心からの)返事を送ると、スマホの音楽アプリでホット・シェル・レイのプレイリストをタップして、流れ出した陽気なリズムに合わせて狭いキッチンでドタバタと踊った。
今月は母親の誕生日があり、いつもより出費する予定だったのだ。彼には感謝してもしきれないと思いながら「タカユキさん、ありがとう!」と天井に向かって投げキッスをすると、ダンスを止めないまま上機嫌に夕飯の支度を再開した。
数十分後、僕のスマホにかかってくる一本の電話で絶望の淵に立たされることになるとは、この時は想像もしていなかった。
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