【01】在りし日を思う

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【01】在りし日を思う

 ある朝のこと。  彼女が書斎に入ると、居候の少年が本棚の横でベッタリと突っ伏していた。  彼女は無言のまま何度か目を瞬き、部屋の入り口で、しばらく佇んでいた。  趣味の畑いじりを終えたばかりのことであり、つい先ほどまで額の汗を拭って清々しい気持ちでいっぱいだったのに、その達成感やら何やらが一気に吹っ飛んでしまった。  それでも彼女クレナ=マギカは少しも慌てなかった。 「ちょっと」  それどころか彼女は腕を組み、その少年を静かに見下ろした。 「何やってんのよ」  そう冷めた声で呼び掛けると、その──自らをシオンと名乗った少年は、わずかに頭をもたげ、かすかに希望の光を宿した眼差しを向けてきた。 「あ。く、クレ姉。助けて」  そう苦しげに彼は呻き、床に擦るように腕をこちらに伸ばしてきた。その腕がプルプル震えているのが(はた)から見ても分かるのだが、彼の言葉の端には、どこか安心感が見え隠れしていた。  クレナは大仰にため息をついた。 「私、書斎には無断で入るなって言ったわよね?」 「うん、聞いたよ。でも気になって、つい」  そう悪びれなく彼は答えた。 「素直なのは感心ね」  素っ気なく言い、クレナはわざとらしく背を向けた。 「じゃあついでに、しばらくそのまま反省なさい」 「え、ちょっと。……え、本気?」  途端に、シオンの言葉が焦りを帯びた。かろうじて伸ばしていた腕が、ぺシャリと床に落ちた。 「ちょ、冗談抜きで苦し、潰れ……」 「そりゃそうよ。そういう風に仕込んでいるんだもの」  にべもなくクレナはそう告げた。  この書斎には、とある条件を満たすと哀れな対象者に身動きが取れないほどの重力が掛かるようなギミックを施してある。  つまり侵入者対策用に施しているそれに、彼は嵌ってしまったのだ。  何とも情けない話だった。 「お、鬼! 悪魔! ……魔女!」 「──あんた、あとで覚えときなさいよ」  背中にぶつけられた言葉にクレナは思わず眉を顰め、低い声のトーンでそう言い放った。  だが、それが彼の精一杯の悪態だったのだろう。  それだけ言うとシオンは何も言わなくなった。 「あら」  ちらりとクレナが振り返ると、シオンは再び床に顔を埋めて、シンとしていた。  どうやら気を失ったらしい。  まぁ、負荷が大きいから当然と言える。 「まったく」  クレナは呆れながらも、本棚に手を添えた。  シオンを床に押し付けていたギミックを解除し、一時的に無効化しておく。  そしてパタンと扉を閉めて書斎を後にし、居間に戻ってきたクレナは、そのまま扉に背を預けた。  シオンには、事前に書斎に勝手に入るなとも、本棚を漁るなとも言い聞かせていたのだが、彼はそんな親切心を知ってか知らずか、ずいぶん簡単に無視してくれる。  好奇心旺盛、と言えば聞こえはいいが、正直言って、クレナは随分この少年の扱いに手を焼いていた。  最近はこうやって何かやらかしては、自業自得な目に遭っている。  こうやって諫めることもしばしばだ。  ──、本当なのかしら……。  クレナは、シオンの素性をまだ見極めかねていた。  彼は、あまりにも世界を知らなすぎる。  そういった諸々の事情もあり、クレナはシオンをこの森一帯から出すわけにはいかなかった。  シオンからすれば、閉じ込められいると言っても過言ではないのかもしれない。悪態をつきたくなるのも、分からないではないのだが……。  天井を仰ぎ、彼女は瞑目した。  不意に、彼と初めて出逢った契機が頭をよぎった。  確かあの日も今日のように穏やかで、何の変哲もない日常の延長線上だった。  少しだけ何かが変わった、そんなある日。  それは、今から三ヶ月前に遡る。
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