5人が本棚に入れています
本棚に追加
【02】天の落とし子
──世界は優しくなんてない。
クレナはそれを知っていた。
別に正義の味方になるつもりはなかった。
結果的に、世間から崇められる存在になっただけだ。
英雄、あまつさえ女傑と呼ばれることもあった。
褒められているのか、それとも貶されているのか。
正直なところ分からない。
正直、この世界を壊してやってもいいかと思った時期もあった。
要するに彼女にとって世界はその程度のものだった。
それでも、とクレナは思う。
──ここは、居心地がいいのよね。
優しい風が吹き、無造作に括った長い赤毛がふわりとそよいだ。あたりを囲むような樹々の葉がさわさわと揺れ動いた。
土臭い匂いが舞い上がる。
クレナは無造作に肩に担いでいた鍬を下ろすと、その鍬先を柔らかい土に振り下ろした。
そうやって、自宅の庭に広がるこじんまりとした畑の土を黙々と耕していく。
──シジマの森。
街から離れた静かな森林地帯。ここはその小高い丘の上にある、彼女だけの領域。
マイペースに土いじりをするだけの些細な日常。
退屈で、それでもって安らげるこの場所で、かつての戦友からお裾分けしてもらった土壌の肥料を撒いて、いそいそと独自で品種改良に勤しむのが、今の彼女の憩いだった。
クレナはふと鍬を柔らかい土の上にトンと立て、そのまま空を仰いだ。
──はるか彼方の上空に、重力をまるで無視した陸地が浮いていた。
それ自体はこの界隈に住む者なら当たり前のことで、特段気に留めるものでもない。
陽の煌く斜光に一瞬目が眩み、クレナは目を細めた。
その空飛ぶ大地から、何かが降ってくるのが見えた。
それは棚引く薄雲にほんのり煙った青空にも映える、小さな小さな影だった。
最初は、孤高な渡り鳥が華麗な飛翔でも魅せているのかと思った。
だが、そんな微笑ましいものではなかった。
クレナは目を見張った。
「え?」と思わず声が漏れた。
その影が俄かに人の姿として視界に捉えられたのだ。
それからは、あっという間だった。
呆然と見上げていたクレナの視線が流れるように落ちていく。
少し遠くの樹々の群れに落下した人影は、すぐに見えなくなってしまった。
ガサガサと不吉な葉のざわめきが響き渡り、クレナはハッと我に帰った。
──落ちた? いまの人、よね。……え?
理解が追いついた直後、ぶわりと強風が駆け抜けた。
呆然として正面から受けた風は彼女の赤い髪を無遠慮に掻き乱した。
衝撃の余波とはまるで違う、不可解な風の流れ。
だがその疑念以上に、クレナは今しがた目の前で起こった惨事に心を惑わされていた。
嫌な場面を目撃してしまった。
遥か上空から人が落ちてきた。しかも見間違いでなければ、まだ年端もいかない子供だった。
命が無事とは、どうしても思えない。
「あぁ、もう」
クレナはワシワシと髪を掻きあげた。
気は向かないが、見て見ぬ振りも後味が悪い。
この森には少なからず魔物が生息している。
普段ならそれほど襲われるようなこともないのだが、今はタイミングが悪い。
とある事情があり、近頃この界隈の魔物が凶暴化している。
死後とはいえ、獰猛な魔獣に食い荒らされるのは少しばかり可哀想だ。
せめて簡単に土葬でもしてあげようかしら。
まぁ、火葬でもいいけれども。
そんなことをクレナは思い、落下した方向に向かおうと足を踏み出した。
その瞬間彼女は耳聡く聞いてしまった。それほど遠くない場所から響いてきた、魔獣の咆哮を。
ザッと足元で柔らかい土が抉れた。
クレナは思いきり眉をひそめた。
この一帯には、魔物避けとしてちょっとした結界を張っている。
何故か。理由は簡単。
丹精込めた畑の野菜を荒らされたくないからだ。
それでも無視して侵入してくるなんて──。
クレナは口の端を歪め、ハッと鼻で笑った。
「いい度胸ね」
この領域に暴力沙汰を持ち込もうなど、よほどの命知らずのように見える。
落ちてきた子供のことも気になるが、それ以上に久しぶりの狼藉にちょっとばかり血が騒いだ。
──久しぶりにお灸を据えてやろうじゃない。
クレナは年甲斐もなく腕袖を捲ると、手に馴染んだ鍬もそのまま、タンと地面を蹴った。
最初のコメントを投稿しよう!