【02】天の落とし子

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*  目の前には、鬱蒼とした茂みが広がっていた。  少年は茂みに隠れるように、小さく身を潜めていた。  先ほどから鼓動は小刻みに脈打っている。  樹々の隙間から差し込む淡い斜陽。どこか幻想的で、かすかな暖かみを持つそれに、つい頭がボゥっとして、ともすれば思考が妨げられそうになる。  少年は場違いにぼんやりと思った。  ──とても長い悪夢を見ていた気がする、と。  筆舌に尽くし難い冒涜的な光景。  心が恐れ慄き逃げたいのにそんな恐怖心すら殺され、ただ目の前に起こっている惨劇から目を背けることもできない、──そんな呪縛に囚われていた。  それに気づけたのは、つい先ほどそれ以上に本能的な恐怖を感じたからだろう。  遥か上空からの墜落。  身の竦むような暴力的な風圧。  先行する鮮烈な、死の感覚。  ゾクリと少年の身体が震えた。  悪夢なんかではない、紛れもない現実だった。  曖昧で残虐な過去も全て。そう気づかされた。  正直、どうして自分が生きているのか分からない。  死にたくない一心で、とにかく無我夢中だった。  だから何をやったかもイマイチよく分かっていない。  ただ、分かっているのは──。  すぐ近くから不吉な息遣いが聞こえて、少年は思考をぶち切った。続けて腹にずんとくるような魔物の低い唸り声がした。  少年は両手で口を覆って、息を押し殺した。  反して鼓動はドクドクと速くなる一方で、すぐに息苦しくなる。  分かっているのは、いまだ危機的状況にある、ということだった。  が魔獣を差し向けてきたと、彼はそう思った。  捕まったら、。  不意に目眩がした。  目の前が霞み、気を抜いたら意識を持っていかれそうになる。  少年は強く目を瞑り、ぶんぶんと頭を振った。  そしてゆっくりと息を吐き出し、つと視線をあげる。  何としても逃げないと。  ──帰らないと。  今はただその切望だけを原動にして、彼はサッと茂みから抜け出した。  樹々と茂みの隙間を縫うように走る。  何度か転びそうになった。  足に鋭い痛みが走り、少年は顔をしかめた。素足で森を逃げているのだ。  落下の衝撃のせいか、身体が軋んでいる気がする。  まさに満身創痍。  しかし足を止めるわけにはいかない。  背後から、ガサガサと草葉が激しく擦れ合う音が聞こえてきた。  ただの風だと思いたかった。  しかしそんな淡い期待は、地面を力強く踏みしめる獣の足音を聞くなり、儚く崩れ去った。  必死で走る。歯の隙間から呼気が漏れる。  ガサリと茂みを掻き分けると、ふと目の前が拓けた。  獣道からちょっとした歩道に出た。  左右に路が伸びている。  少年は素早く視線を走らせた。  どっちに逃げよう、そんな迷いが生じた矢先、身の毛もよだつような咆哮が聞こえた。  思ったよりもずっと近くからだった。  思わず振り返った視界が一瞬、自分の背丈よりも大きな魔物を捉えた。  狼のようなそれが大きく巨腕を振りかぶっていた。  俄かに絶望が這い上がるより速く、少年は咄嗟に胸の前で腕を交差させた。  その腕にとんでもない衝撃を受け、彼の視界が吹っ飛んだ。  足が浮く。直後何かに激突して、かはっと肺の空気を吐き出した。  そのままドサリと地面に転がる。  鈍い痛みが背中に腕に、全身に走った。  湿った雑木の匂いがする。  どうやら吹き飛ばされて樹の幹にぶつかったらしい。  モロに衝撃を受けたのだろう。すぐに立ち上がろうとしたが、まるで身体が言うことを聞かなかった。  身体が痛い。痛くて、どうしてか──熱い。  ギャアスと竜の咆哮のような雄叫びが聞こえた。  横倒しになった視界の先に、にじり寄る魔獣の姿が映った。  その顔のあたりが、煌々と赤く照らされていた。  こいつ、炎を吐くのかな。  煮ても焼いても美味しくなんてないのに。  諦観の混じった心のぼやきは皮肉を帯びていた。  だがそれも、胸の中だけですっと消失した。  また咆哮が聞こえた。目の前の魔獣がよろめいた。  様子がおかしいと、少年はわずかに顔をあげた。  魔物は炎を吐こうとしているのではなかった。  メラメラと、そう例えるなら、まるで横顔に炎が執拗に纏わりついているような感じで──。 「──ああ、うるさいわね!」  ふいに不機嫌そうな女性の声が聞こえた。  声のした方にゆるゆると視線を向ける。  わずかに隆起した路の先に、いつの間にか、見知らぬ女性が佇んでいた。  小麦色の麻の粗末なワンピースに身を包み──粗末なんて、自分の服装も人のことを言えたものではないが──、その手には、何故か農具のようなものが握られていた。──あれは、……鍬?  一見、農民のような出で立ち。  そんな彼女は、堂々と仁王立ちまでしていた。  女性の結った赤い髪が、ふわりと舞い上がった。  ……違う、農民なんかじゃない。  ニヤリと笑うその容貌は、──どこか畏怖すら感じる姿は、まるで。  ──紅の魔女だ、彼はそう思った。  それが限界だった。  急激に視界が歪み、目の前が真っ暗になっていく。  その光景を最後に少年シオン・クルーガーの意識は、しばらく闇に沈むことになった。  ──。
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