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目の前には、鬱蒼とした茂みが広がっていた。
少年は茂みに隠れるように、小さく身を潜めていた。
先ほどから鼓動は小刻みに脈打っている。
樹々の隙間から差し込む淡い斜陽。どこか幻想的で、かすかな暖かみを持つそれに、つい頭がボゥっとして、ともすれば思考が妨げられそうになる。
少年は場違いにぼんやりと思った。
──とても長い悪夢を見ていた気がする、と。
筆舌に尽くし難い冒涜的な光景。
心が恐れ慄き逃げたいのにそんな恐怖心すら殺され、ただ目の前に起こっている惨劇から目を背けることもできない、──そんな呪縛に囚われていた。
それに気づけたのは、つい先ほどそれ以上に本能的な恐怖を感じたからだろう。
遥か上空からの墜落。
身の竦むような暴力的な風圧。
先行する鮮烈な、死の感覚。
ゾクリと少年の身体が震えた。
悪夢なんかではない、紛れもない現実だった。
曖昧で残虐な過去も全て。そう気づかされた。
正直、どうして自分が生きているのか分からない。
死にたくない一心で、とにかく無我夢中だった。
だから何をやったかもイマイチよく分かっていない。
ただ、分かっているのは──。
すぐ近くから不吉な息遣いが聞こえて、少年は思考をぶち切った。続けて腹にずんとくるような魔物の低い唸り声がした。
少年は両手で口を覆って、息を押し殺した。
反して鼓動はドクドクと速くなる一方で、すぐに息苦しくなる。
分かっているのは、いまだ危機的状況にある、ということだった。
奴が魔獣を差し向けてきたと、彼はそう思った。
捕まったら、また殺される。
不意に目眩がした。
目の前が霞み、気を抜いたら意識を持っていかれそうになる。
少年は強く目を瞑り、ぶんぶんと頭を振った。
そしてゆっくりと息を吐き出し、つと視線をあげる。
何としても逃げないと。
──帰らないと。
今はただその切望だけを原動にして、彼はサッと茂みから抜け出した。
樹々と茂みの隙間を縫うように走る。
何度か転びそうになった。
足に鋭い痛みが走り、少年は顔をしかめた。素足で森を逃げているのだ。
落下の衝撃のせいか、身体が軋んでいる気がする。
まさに満身創痍。
しかし足を止めるわけにはいかない。
背後から、ガサガサと草葉が激しく擦れ合う音が聞こえてきた。
ただの風だと思いたかった。
しかしそんな淡い期待は、地面を力強く踏みしめる獣の足音を聞くなり、儚く崩れ去った。
必死で走る。歯の隙間から呼気が漏れる。
ガサリと茂みを掻き分けると、ふと目の前が拓けた。
獣道からちょっとした歩道に出た。
左右に路が伸びている。
少年は素早く視線を走らせた。
どっちに逃げよう、そんな迷いが生じた矢先、身の毛もよだつような咆哮が聞こえた。
思ったよりもずっと近くからだった。
思わず振り返った視界が一瞬、自分の背丈よりも大きな魔物を捉えた。
狼のようなそれが大きく巨腕を振りかぶっていた。
俄かに絶望が這い上がるより速く、少年は咄嗟に胸の前で腕を交差させた。
その腕にとんでもない衝撃を受け、彼の視界が吹っ飛んだ。
足が浮く。直後何かに激突して、かはっと肺の空気を吐き出した。
そのままドサリと地面に転がる。
鈍い痛みが背中に腕に、全身に走った。
湿った雑木の匂いがする。
どうやら吹き飛ばされて樹の幹にぶつかったらしい。
モロに衝撃を受けたのだろう。すぐに立ち上がろうとしたが、まるで身体が言うことを聞かなかった。
身体が痛い。痛くて、どうしてか──熱い。
ギャアスと竜の咆哮のような雄叫びが聞こえた。
横倒しになった視界の先に、にじり寄る魔獣の姿が映った。
その顔のあたりが、煌々と赤く照らされていた。
こいつ、炎を吐くのかな。
煮ても焼いても美味しくなんてないのに。
諦観の混じった心のぼやきは皮肉を帯びていた。
だがそれも、胸の中だけですっと消失した。
また咆哮が聞こえた。目の前の魔獣がよろめいた。
様子がおかしいと、少年はわずかに顔をあげた。
魔物は炎を吐こうとしているのではなかった。
メラメラと、そう例えるなら、まるで横顔に炎が執拗に纏わりついているような感じで──。
「──ああ、うるさいわね!」
ふいに不機嫌そうな女性の声が聞こえた。
声のした方にゆるゆると視線を向ける。
わずかに隆起した路の先に、いつの間にか、見知らぬ女性が佇んでいた。
小麦色の麻の粗末なワンピースに身を包み──粗末なんて、自分の服装も人のことを言えたものではないが──、その手には、何故か農具のようなものが握られていた。──あれは、……鍬?
一見、農民のような出で立ち。
そんな彼女は、堂々と仁王立ちまでしていた。
女性の結った赤い髪が、ふわりと舞い上がった。
……違う、農民なんかじゃない。
ニヤリと笑うその容貌は、──どこか畏怖すら感じる姿は、まるで。
──紅の魔女だ、彼はそう思った。
それが限界だった。
急激に視界が歪み、目の前が真っ暗になっていく。
その光景を最後に少年シオン・クルーガーの意識は、しばらく闇に沈むことになった。
──。
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