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【03】紅の魔女
──気づけば、見知らぬ天井があった。
少年は緩慢に視線を巡らせ、あたりの様子を窺った。
どうやらベッドの上で仰向けになっているらしい。
いつの間にか室内にいた。因果がまるで分からない。
にわかに落ち着かない気分になった。
状況を把握しようとわずかに身を起こすと、
「目が醒めた?」と、やはり知らない声がした。
ベッドのかたわらに、知らない女性がいた。
目に映える緋色の髪がとても綺麗で印象的だと、少年は思った。
椅子に座っていた彼女は、パタンと片手で本を閉じると、こちらに視線を向けてきた。
「調子はどう?」
小さく首を傾げて、女性はそう訊いてきた。
調子、と聞かれても、頭がぼんやりしていてよく分からない。
少年は何か言おうとしたが言葉が出てこず、中途半端に口をパクパクさせた。
「顔色があまり良くないわね。どこか具合悪い?」
「う、うぅん。大丈夫」
ぎこちなく首を振って、どうにかそれだけ言った。
「そう」と女性は呟いた。
それから少し沈黙が降りた。
少年はどうにも居心地が悪くなって、そのまま視線を彷徨わせた。
何の変哲もない部屋、と言うと味気ないが、ベッドがあるからきっと寝室なのだろう。
木目の壁に囲まれた八畳ほどの部屋で、いま自分が身を起こしたばかりのベッド以外は、小さなサイドテーブルと衣装棚くらいしかない。
少年は女性に視線を戻した。
「あの、ここは? えっと……」
「私のことはクレナって呼んで」
言葉に詰まったから、察してくれたのだろう。
女性──クレナはそう言って続ける。
「でもって、ここは私の家。──あんた、名前は?」
名前と訊かれて、少年は右やや斜め上あたりに視線を投げた。
天井の隅に、無意味に蜘蛛の巣を見つけてしまった。
しばらく目を瞬いていたが、彼は再びクレナに視線を落とした。
「……シオン?」
「なんで疑問形なのよ。まぁいいわ」
さして気にした様子もなく、クレナはおもむろに立ち上がった。
「それよりシオン、お腹減ってない? ちょうどお昼にしようと思っていたところなの。よかったら一緒にどう? ……あ、もしかしたら喉を通らないかしら?」
グゥとタイミング良くお腹の虫が鳴った。
シオンはさっとお腹を押さえたが、クレナが微妙な顔をしていたから、きっと彼女にも聞こえたのだろう。
「えっと、いただきます」
身体は正直だ。
シオンはホロリと苦い笑みを浮かべた。
「じゃあ、ちょっと待ってなさい」
そう言って、クレナは部屋を出ていこうとした。
「あ、ちょっと待って!」
シオンはクレナに呼び止めた。
扉のノブに手を掛けた彼女が、くるりと振り向いた。
「なに?」
「あの。僕、どうしてここにいるの?」
脈略のない状況に心がザワザワする。
確認しておかないと、どうにも落ち着かない。
「覚えていないの?」
クレナが怪訝そうな顔をした。
「えっと、何を?」
「あの状況下で、あんたが何をしたのかも?」
クレナが続け様に投げてきた言葉の意図が分からず、彼はただ彼女を見つめ返すことしかできなかった。
「──最後に覚えていることは?」
クレナが神妙な面持ちで訊いてきた。
心持ち、声のトーンが落ちていた。
シオンは視線を巡らせ、クレナに言われた通り記憶を辿ろうとした。
そして気づけば息が止まっていた。愕然とした。
何も、言葉が出てこない。
言葉にできるだけのことをまるで思い出せないのだ。
さっと身体の芯が冷える錯覚に陥った。
「……しばらく安静にしてなさい。ここは安全だから」
クレナはわずかに目を伏せてそう言うと、そっと部屋を出て行った。
キィ、バタンと、かすかに軋んだ音を立てて扉が閉じられた。
部屋に一人取り残されたシオンは、ずれ落ちた薄い毛布のふちをぎゅっと握り締め、ゆるゆるとベッドに視線を落とした。
お腹は空いたし、喉も渇いた。そんな人間として当然の欲求を満たせと、身体が声を張っている気がする。
しかしそれ以上に、自分の陥っている状況に、本能的な恐怖を感じた。
無音になるかと思えばそんなことはなく、開け放たれた窓からは自然のさざめきが入り込んでくる。
窓の外に視線を向ける。明るい斜陽に景色がぼやけているが、背景は緑に覆われていた。
あたりはきっと森なのだろう。
小鳥のさえずり、洗濯物が風にはためく音、ヌーという間抜けな鳴き声。
雑多な、しかしまるで渾然一体と空間に調和するようなそれらは、不安定な心を少しばかり落ち着かせる。
……ぬー?
自然の音に混じって、なんだか妙な鳴き声を聞いた気がした。
気のせいかな。
シオンは今度は自分の腕に視線を落とした。
先ほどから違和感があった。そっと粗末な衣類の袖を捲ると、腕には包帯が巻かれていた。
何で包帯なんか……。
不思議に思ってツウと人差し指でなぞってみた。
「痛っ、つぅ……!」
途端にズキリと鋭い痛みが走って、シオンは腕を抱えるようにベットに突っ伏した。
包帯巻かれてるくらいだから余程の怪我なのだろう、なんてことを痛みを以って遅れて痛感する。
それくらい考えなくても分かるよな、普通……。
ベッドに顔をうずめ、しばらくそのまま痛みに耐えていた。
ふと、なぁと可愛らしい鳴き声が聞こえた。
ちょっとだけ痛みが紛れた気がした。
「うん?」
視線をあげれば、いつの間にかベッドの上に、小さな動物がいた。
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