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「おおかみが来たぞ」
少年がまた同じ嘘を繰り返している、誰だってそう思うでしょう。私だってまたそうなんだろうなって思っていたよ。
“オオカミ少年”という絵本を、彼は今でもとても気に入っている。
いつでもその絵本を持ち歩いていて、暇さえあれば開いている。声には出さないけれど、口はぱくぱくと動いているから、あれはちゃんと読んでいるのだと思う。
彼は口癖のように「おおかみが来たぞ」っていう。大人たちは誰も気にしない。子どもたちも気にしない。
ああまた少年が嘘をついている。“オオカミ少年”という本が好きな彼が、この裏道で、細い通りの廃れたまちで、嘘をついている。
ここには狼なんていない、ましてやここには狼が狙うような羊の群れどころか一頭の羊もいないのだ。もちろん少年は羊飼いでもなんでもないのだ。
それなのに少年は繰り返す。
「おおかみが来たぞ」
みんながみんな少年の嘘に慣れている。だから、誰も少年の嘘を咎めないし、止めることもしない。そんな嘘も含めて私たちの日常になっていく。
それはとても怖いほどに人びとは慣らされていく。
私もそうだったから。
「ねえ……あれ」
「ああ、あの子はいつものことだよ」
「いや、そうじゃなくて……」
私も全く気づいていなかったから。気づくべき異変に。
彼女は私の十年来の友人で、久々に私を訪ねて遊びに来てくれた。
大学受験に失敗した私は、浪人することなく適当にずるずると就職した。あんまり条件もよくなくて、保険とか税金とか引かれてしまえば、給与だって生きるのに少し足りない。
だから私はまちのはずれで小さく小さく生きている。多分“普通”の水準にはなれないだろう。この会社にいる限りは。
この裏道の、細い通りの廃れたまちには、そんな人たちが巣くっていて、日々を生きるために生きている。
多少服が汚れていても、靴に穴が開いていても、気にするほどのこととは思っていなかった。
「それは流石に普通じゃないよ」
だから彼女の言葉にはっとした。
よく見ると少年は服が汚れているどころか、細々と骨と皮が目立って、靴だって履いていなかった。
少年の親はどうしたのだろうか。
そういえば少年の親はどんな人だろうか。
私は知らなかった。
「おおかみが来たぞ」
また同じ嘘をつく少年に、私は彼女と一緒に訊ねた。
「どうしたの?」
少年の家にはすっかりと息絶えた彼の母親が転がっていた。
季節が季節ならあっという間に、虫がわいて異臭が周囲に異変を知らせただろう。
きっと彼はこの異変をずっと伝えたかったのだろう。母親の危機を伝えたかったのだろう。
“言葉が遅れている”少年は、何度も読み返した絵本の言葉を借りていただけだったのだろう。
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