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【身を捧げる】新名 真守(あたな まもる)
[一九四六年八月十八日]
いつものように井戸の縁に座り、玲子ちゃんがやって来るのを待つ。今まで大切にしてきた、彼女との関係を、僕は今日で終わらせる。
これから傷つくであろう彼女のことを思うと、辛くて顔を俯けてしまう。井戸の縁を掴む手に無意識に力が込もる。覚悟を決めて来たはずなのに、他にましな方法はなかったのかと、今更になってまだ悩んでしまう。そんな自分にこれしかないんだ、諦めろと必死に言い聞かせる。
そんな葛藤をしていると、彼女がいつものように駆け寄って来た。こちらに向かってくる彼女の表情はいつもより嬉しそうに見える。きっと両親から父親だけ移住するという話を聞いて、村に残れることが嬉しくて、早く僕に伝えたかったのだろう。
僕は悩みを切り捨てるように一度唇を強くかみしめて気持ちを切り替えると、彼女に向かってこれまで見せたことのない嫌そうな顔を見せる。
「まもる、くん……?」
村の子とはすれ違いがあったとはいえ、彼女にとってはトラウマになっているだろう表情を僕は今している。彼女は僕の顔を見て、状況を理解できずに固まってしまった。
「いい加減うんざりなんだよ、お前に付き合うの。今まで嫌々相手してたけど、もうすぐいなくなるわけだし我慢する必要ないだろ? 早く引っ越していなくなってくれないかな。この村にお前はいらないんだよ」
動揺しながらも必死に話をしようとする彼女を遮って、思いつく限りの言葉で彼女を罵倒して傷つける。嘘とはいえ、こんな思ってもいないような酷い言葉を口にしたくはなかった。彼女の顔を、反応を見ることができずに僕は目を反らした。これ以上は何も言いたくなかった。お互いに話すことができずに、場に沈黙が訪れる。
やがて僕の言葉を理解して、僕の表情のわけを理解した彼女は、何も話さずその口を閉じると、振り返って走り去って行った。走りながら涙を流す彼女の傷ついた姿を見て、僕はただひたすらにこんな手段しか取れないことへの自己嫌悪に陥っていた。
おそらく彼女は、今日のことを何かの間違いだと思い込んでまたここにやって来る。だから明日以降、僕はこの場所には来ない。これから先、僕と彼女が会うことは一度としてないだろう。
お別れだ、玲子ちゃん……
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