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新緑を揺らすそよ風が、日曜日のベランダを吹き抜けた。 大きなTシャツの群れが風の中で泳いでいる。 洗剤の爽やかな香りが、やさしく肺に入り込んだ。   「ねぇ、母さん。英語の宿題手伝って」 ダイニングテーブルでプリントと電子辞書を広げている高校生の娘・(あや)が助けを求めてきた。 「え、やだ」 わたしがからかうように笑うと、彩は父親そっくりの、ぽってりとした唇を尖らせた。 「母さんだって、昔は高校生だったでしょ」 「気持ちは今も高校生」 「アオハルかよ」 彩はマグカップに入ったミルクティーをずずずとすすった。 テーブルの上は雑誌や筆記用具で散らかっている。 その中から真っ白なプリントを持ち上げると、課題を気だるく読み上げた。 「嘘を付くことについて、あなたの立場を明確にした上で、8文以上の英文で意見を述べなさい―ーだって。『嘘はダメです』以外に書くことなんかなくない?」 「ふーん、それはどうかな」 わたしはTシャツのしわを伸ばす手を止め、青空を見上げた。蘇る、青春の記憶。 「嘘で傷付く人もいれば、嘘に救われる人もいる」 ちょうど洗濯かごが空になった。 ダイニングの床にそっと置くと、彩の隣に座って雑誌を手に取った。 その表紙を、夫の写真が飾っていた。 「お母さんの、高校時代の恋バナをしようか」 ――あれは、高校2年生の5月。 わたしは、忘れられない恋をした。
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