数学ノートは恋の味

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 放課後、しんと静まり返った教室に、相川(あいかわ)千晴(ちはる)は、ひとり、いた。忘れ物を取りに来たのだった。明日提出の数学のノート。千晴は自分の机からそのノートを引っ張り出すと、鞄にしまった。自分以外誰もこの空間にいないせいか、校庭から運動部のかけ声がよく聞こえた。  窓際の、前から二番目。その席の机に、千晴は腰を乗せ、外を眺めた。サッカー部、陸上部。四階のここからだと、校庭を駆ける生徒たちが、駒のようにちいさく見えた。あとは―― 「あり? 相川」  すっとぼけた声。見ると、ドアのところに野球部のユニフォームを着た森田(もりた)が立っている。 「何してんの? こんなところで」  森田はからっと質問を投げかけながら、教室に入ってきた。千晴はさっと、机から降りる。 「数学のノート、忘れて」 「ああ! 明日だっけ? シモセン忘れると怖いもんな」  数学の担当は下田(しもだ)という男性教諭だ。生徒から“シモセン”と呼ばれていて、提出物に厳しいことで生徒間では有名だ。 「別にいいぜ! 座ってて」  森田が明るく言った。千晴が座っていたのは、まさしく彼の席だった。 「いいだろ〜! この席。日が当たって気持ちいいんだ」  爽やかな笑顔で答える。森田は、いつもこんな感じだ。誰に対しても、人懐こくて、温かい。だから彼の周りには、男女問わず、いつも人が集まっている。 「うん。でも眠くなりそう」 「ご名答~。五限目は大抵寝てる」  千晴は笑った。森田も笑った。 「森田こそ、何しに来たの?」  千晴が問う。森田はうん、と頷いた。ちらりと自分の机を見た後に、「タオル取りに来た」と、後ろのロッカーを指差す。 「教室出るときに一式持ってくはずなのに、いつも何かしら忘れるんだよな~俺」  森田はロッカーからタオルを取り出すと、それを首にかけた。 「じゃーな。外、結構暑いから気を付けて帰れよ。相川」 「うん」  ばいばい、と小さく手を振った。森田が教室から姿を消すと、千晴の心臓がとたんにドキドキと高鳴り出す。  森田の机をちらりと見た。端っこのほうに「目指せ甲子園!!!」とシャープペンで殴り書きをしている。その文字を、そっとなぞる。見てみたい。彼が、甲子園球場でバットを振っている姿を――誰よりも、いちばん、近くで。
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