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La Vie en rose
「ミス・ゲシュタルト、ここまでだ!」
貴族の邸宅の庭で、この屋敷の私兵と駆けつけてきた警邏隊に囲まれて槍を突きつけられる。
なかなかの人数だ。私兵と警邏隊に僕を捕らえるつもりがないのなら、あっという間に串刺しにすることも可能だろう。
顔の上半分を覆う仮面越しに周囲を伺う。夜も更けて月と星、それに私兵と警邏隊が持った松明以外に灯りはないけれど、この仮面越しに見ると夜の闇の中でも周囲は鮮明に見えた。
目の前にいる私兵が槍の構えを変える。いよいよ僕を串刺しにするつもりらしい。
「あらあらみなさん、そんなにこわい顔をしないで」
僕はそう言って右手を顔の前に持って来てぐっと握る。それから力を込めて手を開くと、白魚のようだった手は瞬く間に鱗で覆われ肥大化する。それと同時に固く分厚い爪も腕より長く伸びた。
その右手で、目の前の私兵と警邏隊を虫でも払うかのようになぎ払う。
「ひぃっ! ま……魔女だ!」
どこからともなくそんな悲鳴が聞こえる。
そして、その光景がよほどおそろしかったのだろう。取り囲んでいた槍を持つ人垣が、少しだけ遠巻きになった。ほんの少しとはいえ周りを確認する余裕ができたので後ろを振り向くと、屋敷の二階部分にバルコニーがあった。軽く膝を折り、それを力強く伸ばして跳躍する。盗品の入った重い荷物を持ったままでも、バルコニーまで跳ぶのは容易なことだった。
バルコニーに降り立ち、右手をもう一回振るって力を抜く。すると、先程まで異形であった右手は人間のものへと戻った。
下を見おろすと、私兵と警邏隊がバルコニーの下へと詰め寄っている。少し視線をずらすと、また屋敷の中へと戻ろうとする私兵もいた。それに捕まると面倒だ。僕は左手に持っている袋の中に手を突っ込み、上の方に入れている書類の束を掴んで取りだし、それをバルコニーの下へとばらまく。
「警邏隊のみなさん、いつも通り私からのプレゼントですわ!
このあとどうするかはお任せします」
バルコニーの下にいる警邏隊に向かってまかれた書類は、この屋敷の貴族が働いていた不正の証拠だ。私兵は動揺し、警邏隊は事実確認をしようとしているのだろう。先程とは違う動きを取り始めた。
私兵と警邏隊とでもみ合いがはじまる。僕のことを捕まえるのが優先だという声と、貴族の不正を問いただすのが先だという声。そのふたつが混じり合って、その場は混乱を極めた。
「あっはっはっはっは!
あいかわらずですわね。
それでは私はこの辺で失礼しますわ。ごきげんよう!」
バルコニーの下で揉み合ってごちゃごちゃやっているのを尻目に、僕はまたバルコニーから跳ぶ。屋敷の屋根の上に飛び乗り、その上を駆け、他の建物の屋根に飛び移る。そしてその勢いのまま建物から建物へと飛び移り、貴族の住む区画から離れていく。
以前はこうやって逃げていてもしばらくは警邏隊だの私兵だのがしつこく市街地まで追いかけてきていたものだけれども、このところは僕が去り際にあくどい貴族の不正を暴く証拠をばらまいてから去って行くというのが警邏隊の中でも認識されるようになったようで、証拠の書類が出たあとは僕を追うよりも不正を働いている貴族を問い詰める動きを見せるようになった。そうなると、私兵と警邏隊で連携が取れなくなるので、僕はこうやってやすやすと逃げ切ることができるのだ。
もっとも、今までに何度か手違いでなんの不正もしていない貴族の屋敷に忍び込んでしまったことがあって、その時はさすがに私兵も警邏隊も撒くのが大変だったけれども。
平民が住む住宅街を抜け、背の高い集合住宅が建ち並ぶ貧民街へと到る。周囲には不快だけれどももう慣れてしまった、そんな匂いが充満している。
この集合住宅は、建てられてからどれくらい経っているのだろう。まともとはいいがたい作りで、この建物の中に狭い部屋がたくさんあって、そのひとつひとつに、何人もの家族が身を寄せ合って暮らしている。たぶん、貴族はおろか住宅街に住んでいる平民でさえ、この貧民街の生活は想像できないだろう。
集合住宅の屋根の上を伝って、貧民街の中にある孤児院へ向かう。集合住宅の群れの中に、一ヶ所だけ背の低い小さな建物がある。そこが僕が今目指している孤児院で、僕の帰る場所だ。
孤児院の近くまで行き、周囲に誰もいないのを確認してから地面に降り立つ。それから、物陰に入り顔に着けている仮面に手を掛けた。仮面を外すと、夜の闇より濃い黒い靄が僕の身体を包む。すると、いままで身に着けていた膝丈のドレスとクリノリンは消え去り、膨らんでいた胸も平らになる。靄が晴れると、僕はいつも通りの薄汚れたシャツとズボン姿へと戻っていた。
外した仮面は、銀色のブレスレットと形を変え、僕の左手首におさまっている。それを、僕はシャツの袖で隠す。こういったものを身に着けているのをこの貧民街で見られると、なにかと面倒だからだ。
そうして落ち着いたところで、改めて盗品の入った袋を持って孤児院の裏口から中へと入る。するとそこは孤児院の事務所になっていて、小さなランプで照らされている。
「おかえり、ゴーチェ」
事務所の椅子に座っていた細身の男が僕に声を掛ける。僕は裏口を閉めて盗品を彼の側に持っていく。
「ただいま。
アリスティド、子供達はどうだった?」
「ああ、みんな良い子にして寝ているよ」
小声でやりとりをして、僕も事務所の椅子に腰をかける。それから、今回の首尾についての話をした。
「今回はなかなかいいものを持ってこられたよ」
「そうなのかい? 例えばどんな?」
「売るのに楽そうな宝石や絵画かな。
レースの類いは売る時に足が付きやすいってきいたから避けてきた」
「なるほどね」
僕がミス・ゲシュタルトとして貴族の屋敷に忍び込んで盗んできたものを売りに行くのは、今目の前でやりとりをしているアリスティドだ。どういうルートで売りさばいているのかを僕は知らないけれども、その秘密のルートでさえ、レースという貴族の身分と家柄を示す物品は辿られやすいので避けたいというのがアリスティドの意見だ。
足が付きやすいという事情がないのであれば、レースは軽くて持ち運びやすいし高く売れるので、いいターゲットなのだけれども。
ふと、先程警邏隊と私兵に囲まれた時のことを思い出した。あの時、思わずミス・ゲシュタルトとしての本性を垣間見せてしまったけれども、そのことが気に掛かって思わず溜息が出た。
「ん? どうした」
僕の溜息を聞き取った様子のアリスティドが気遣うように訊ねてくる。僕は言いづらいながらに、溜息の理由を答える。
「実は、さっき囲まれた時にさすがにヤバいと思って、久しぶりに怪物らしさを出しちゃったんだよね……」
すると、アリスティドが声を低くして僕に顔を寄せる。
「そんなに危ない状況だったのか?」
僕も声を低くする。
「そうなんだよ。今回は兵士の勢いがいつもよりすごくて、あわや串刺しってところだった」
「なるほど、それは相当だったね……」
アリスティドは納得したようだけれども、それでもなお、心配そうな声で僕に言う。
「それでも、なるべく異形は見せないほうがいい。
特に最近は、魔女狩りに熱心なやつがいるらしいからな」
魔女狩りの話は僕も聞いたことがある。僕がはじめて魔女狩りの話を聞いたのは、町の市場に食料を買い出しにいった時のことだろうか。たしかその時、市場に行こうと町の大通りに出ると、人垣ができていた。なにかと思って人垣を掻き分けて前に出ると、黒服の男を連れた修道士が歩いて行くところだった。それを見た町の人がこう言った。あの修道士様はこれから魔女を焼きに行くのだ。と。それを聞いて、ひどくおそろしい気持ちになったのをよく覚えている。
「はぁ……魔女狩りかぁ……」
思わずもう一度溜息をついてしまう。ミス・ゲシュタルトが異形の一端を見せた時に、警邏隊だか私兵だかが言った魔女という言葉が思い出される。正直言ってしまえば、僕が魔女なのではないかと問い詰められたら、どこまで否定できるかわからない。魔女狩りに伴う拷問にかけられたら、ほんとうのことをすべて話してしまいかねないのだ。
ミス・ゲシュタルトはそう簡単に力に屈するほど弱くはない。けれども僕は、拷問という暴力に立ち向かうことができるほど強くはないのだ。
「あー、マジでヤバい。魔女狩りをやってるやつの耳に入らないように祈るばかりだな」
「ほんとうに。なにごともなく過ぎ去って欲しいよ」
僕とアリスティドで暗い声を吐き出して、それから、今日はこれ以上起きていてもなににもならないだろうと寝ることにした。
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