La Vie en rose

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 貴族の屋敷に忍び込み、珍しく薄らおそろしい気持ちを抱いた日の翌日。今日もいつものように子供達にごはんを食べさせて、小さい子達の遊び相手を僕と年長の子供達とでして過ごしていた。  教会の鐘の音が聞こえてくる。どうやらお昼時のようだ。僕も子供達もすっかりお腹が空いているけれども、あいにく今日はまだ昼食を食べるだけのお金を作れていない。昨日盗んできたお宝達は、次の安息日の深夜にアリスティドが売りに行く予定なのだ。 「おなかすいたよぉー」  僕に懐いてくれている男の子が、脚にしがみついて甘えるように言う。その子の頭を撫でながら、僕は困ったように笑う。 「僕もお腹空いたけど、晩ごはんまで我慢しよう。 晩ごはんの材料を、今アリスティドが買いに行ってるから」  お昼ごはんは無くとも、晩ごはんがあるということを聞いて安心したのだろうか、男の子がにっこりと笑う。買って来たものをすぐに食べたいとは言わずに我慢ができるなんて、この子は賢い。大きくなったら、きっといい奉公先にいけるだろう。  そうしているうちにアリスティドがマルシェバッグを抱えて帰ってきた。マルシェバッグの中に入っているのは、バゲットと干し肉、それと季節の野菜が少々のようだ。 「ただいま」 「おかえり。それは奥においてきて。勝手に食べちゃう子がいるかも知れないから」 「わかってる。食べたくなる気持ちもわかるけどね」  そう言ってアリスティドは僕に言われたとおり、奥にある事務所へとマルシェバッグを持って入っていく。奥の事務所には勝手に入らないようにと子供達には言い聞かせてあるので、あそこに置いておけば勝手に食料が食べられるということもないだろう。  もっとも、勝手に食料を食べるような子がいた場合は、心苦しいけれども厳しく叱るようにしている。そうやって食料を分け合うことを教え込まないと、この小さくて貧しい孤児院で、全員が生き延びることは難しいのだ。  ふと、孤児院の入り口をノックする音が聞こえた。一体どこの誰が何の用だろうと、僕とアリスティドで顔を見合わせる。  アリスティドと年長の子供達に小さい子を任せ、入り口を薄く開ける。そこから外を窺うと、なにやらにこにこしているけれどもぼんやりした印象の男が立っていた。  僕はその男を見て違和感を覚えた。僕達と同じようなくたびれた服を着ていて、長く伸ばしている髪もぼさぼさだ。けれどもその表情からは、いわゆる貧民とは違う雰囲気が漂っていた。その雰囲気をなんといえばいいのか、僕にはわからない。 「なんの用ですか?」  訝しがりながらそう訊ねると、男は機嫌良さそうな声でこう答えた。 「いやはや、突然来てしまって驚かせてしまったようだけれどね、この孤児院のまとめ役の人と話をしたいんだよ」  しゃべり方も、どうにも違和感がある。けれども、見た感じでも、直感で判断する感じでも、この男から悪意は感じなかった。  少し考えて、中にいるアリスティドに目配せをする。アリスティドは子供達をぐるりと見てから、了承するように頷いた。 「どうぞ中へ」  入り口を大きく開き、男を孤児院の中へと招き入れる。それから、アリスティドと一緒に奥の事務室へと男を案内した。  子供達の疑問の声を遮るように事務所のドアを閉める。それから、隣の部屋に聞こえないように低めの声で男に問いかけた。 「さて、話の前に何者なんです?」  僕の問いに、男はあいかわらずにこにこしたままズボンのポケットに手を入れる。その素振りを見て思わず身構えると、男がポケットから取りだしたのは、繊細なレースの付いたハンカチだった。  そのレースを見て、僕は驚く。男が出したハンカチに付いているレースの柄は、領主様のものだったからだ。  思わずうわずった声が出る。 「りょ……領主様……? なんで……?」  僕の言葉に、アリスティドも驚きを隠せないようだった。一方のハンカチを持った男は、僕達を見てこう答える。 「いかにも、私は領主だよ。 実は君たちに頼みごとがあってね」  領主様が僕達に頼みごと? どういうことなのだろうと思って言葉を待っていると、領主様は僕の方を見てこう言った。 「ミス・ゲシュタルトと手を組みたいんだ」 「ミス・ゲシュタルトと?」  思わず戸惑ってアリスティドに視線を送ると、アリスティドは領主様に一礼をしてからこう訊ね返す。 「そうはおっしゃられましても、我々とミス・ゲシュタルトにどんな関係があると?」  すると、領主様はさも意外といった顔をして答える。 「どんな関係と言われてもね、それは君たちの方がよく知っているのではないかな」  それから、レースの付いたハンカチを広げて見せて、僕の方を向く。 「このハンカチを見て私が領主だとわかったということは、君がミス・ゲシュタルトだね?」  背筋に衝撃が走った。どうして、どうして領主様はその事に気づいた? 僕はなにかまずいことをしただろうか。  なにも言葉を返せないでいる僕に、領主様はハンカチをポケットにしまいながら続ける。 「こういった貴族の持ち物に詳しい人物は、ここみたいな貧民街にはなかなかいないだろう? けれども君はこれがなにを示すものであるかすぐさまに見抜いた。貴族の持ち物を見慣れているということではないかな。 貧民街に暮らしていてなお貴族の持ち物に詳しいというのは、貴族の屋敷に盗みに入るような輩くらいじゃぁないかと私は思うのだけれどね」 「あー……たしかに……」  初手でやらかしていた。  僕は素直に、自分がミス・ゲシュタルトであることを認める。その上で、アリスティドが改めて領主様にこう訊ねる。 「まぁ、ミス・ゲシュタルトとこの孤児院の関係については深入りしないでいただけると嬉しいのですが…… それはそれとしてミス・ゲシュタルトと手を組んで、なにをやらせたいのですか?」  それを聞いて領主様は少しだけ首を傾げたけれども、すぐに手を組みたいという内容を答えてくれた。 「実はね、この街にある銀行の金の動きを見て欲しいんだ」 「銀行の?」 「そう、銀行の」  僕の疑問の声に、領主様は頷く。どういうことなのかわからずに僕とアリスティドとで目配せをしていると、領主様はさらに詳細を説明してくれた。 「銀行の金の動きを見て、不正をしている輩を炙り出して欲しいんだ。 ミス・ゲシュタルトはそういったことはお手のものだろう?」 「あー、なるほど。確かに得意ですけど」  領主様の言葉を聞いて僕は納得する。おそらく、領主様はこの領とまではいかなくとも、この街に溜まった膿をすべて切って出してしまいたいのだろう。そのためには、真っ当に銀行に指令を出すよりかは、ミス・ゲシュタルトのような法外だけれども手慣れている相手と裏で手を組んだ方が下手な隠蔽をされずに済む。と、判断したのだと僕は思った。  領主様が簡単な手順を僕達に提示する。その手順というのは、まずミス・ゲシュタルトが銀行の金の流れを確認し、その中で不自然と思えるものを炙り出す。その上で、あやしい貴族の屋敷に忍び込み、不正の書類を抑えるという感じだ。  これはもう、僕としては慣れたことだけれども、手順以外に確認しなくてはいけないことがある。それを僕は口にした。 「で、領主様と手を組んだ場合のこちらのメリットは?」  その質問を待っていたのか、領主様はにっこりと笑って淀みなくこう答えた。 「これから毎月、この孤児院の子供達が三食食べて生活できるだけの資金援助をしよう。 私としても孤児院の子供が奉公に出られるようになれば働き手が増えて助かるし、君たちとしても食べるに困らなくなるのなら悪い話ではないと思うけれどね。どうかな」  確かに条件としては悪くない。僕がその条件で飲もうとしたその瞬間、アリスティドが領主様に言う。 「それだけでは少々不十分ですね」 「そうかい? なら他にどんな見返りが必要かな?」  アリスティドはこれ以上なにを望むつもりなのだろう。背中に汗が浮かぶのを感じながらアリスティドの方を見ると、彼はこう続けた。 「月に一度か二度、貧民街の人々のために炊き出しをするための資金も支援していただきたい。 食べるものさえあれば盗みを働かない市民も少なくない。一時的とはいえ、治安が良くなるのであればそちらとしても悪い条件ではないでしょう」  領主様は少し驚いたような顔をしてから、何度か深く頷く。そして、また先程のような笑顔を浮かべてこう返した。 「なるほど、この孤児院は炊き出しもしているのだね。それはいいことだ。 では、子供達の食料費及び孤児院の運営費、それに炊き出しの資金を支援するという条件で、手を組んではくれないかな」  にっと笑ってアリスティドが僕の方を見る。僕は領主様に頭を下げて返事を返す。 「はい、その条件でなら、手を組ませていただきます」  これで交渉成立だと、領主様は満足そうだ。僕としても、領主様が僕達を引っ立てに来たわけではなかったので今では安心している。 「君がミス・ゲシュタルトだというのは、みんなには内緒にしておくからね」 「あ、そこはほんとうによろしくおねがいします」  とても大事なところを確認して、領主様が事務室のドアの方を向こうとする。このまま帰るつもりなのだろうと思ってドアの方へ行くと、領主様が思い出したように僕に訊ねてくる。 「そういえば、君は男の子だよね?」 「はい、そうですが?」 「ミス・ゲシュタルトって女の子だったはずなんだけど、どういう仕組みなの?」 「あー……それはちょっと僕にもわかんないんですよね……」  そういえばそのことが当たり前になりすぎて疑問に思うことを忘れていたけれど、なんで僕はミス・ゲシュタルトになると女の子になるんだろう。改めて考えると、そこはあまりにも不可解だった。
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