ワールズエンド

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 休日の図書館は、僕が言うのもおかしな話だろうが子どもが多くて鬱陶しい。小学生の子どもたちは母親や下のきょうだいと児童書コーナーで幅を利かせ、中学生は主に女の子の集団ばかり、しかもそういう子たちは大体肩を寄せ合って、歳不相応に派手な洋服がたくさん載った雑誌をめくっては薄く、けれど紛れもなく耳障りな声をあげるのだ。キイキイとした彼女たちの鳴き声は、僕に錆びついた蝶番を思い出させる。誰かあの子たちの喉に油を差してあげたらいい、感謝されるに違いないから。  僕は春から六年生になる。重厚な硝子扉を押しロビーへと入ったお母さんは、今度小学三年生になる妹と手を繋ぎながら、 「ショウは?」  と訊ねてきた。お母さんの顔には「どうせショウはママの選ぶ本なんか読んでくれないものね」と、太く赤い文字で書いてある。そりゃそうだろ、という台詞を飲み込みながら僕は、いつものとこ、と短く返す。お母さんは何も言わず、妹の手を引いてそのまま児童書の部屋へ入っていった。さして気にせず僕も階段を駆け上がりカウンターの人たちに頭を下げてその脇を通り抜ける。カウンターと巨大な本棚の群れの透き間、幅の狭い階段を踏み外さないよう慎重に上り、写真集が集められた棚の前に立つ。  僕は、小説より漫画より絵本より、紙芝居より伝記より画集より、何より写真集が好きだった。  写真は、僕が未来永劫見ることのできない、けれど確かに存在していた「いつかの何か」を正確に切り取っている。もちろんその写真と同じ場所にその写真と同じものが、その写真とほとんど変わることなくその写真のように今も存在しているかもしれない。それでも今そこにある“それ”は、この写真に写っている“これ”とは明確に違うのだ。  僕はそういう事実を持つ、写真、という存在が好きだった。  どういうふうに撮ってあるから、どういう色で撮ってあるから、どういう人が撮ったから、どういう人が撮られているから――僕の興味はそういう種類の興味とは全く違う場所にある。お母さんは僕のそういう話を心底つまらなそうな顔で聞く。 「ショウは頭がいいのねえ」  僕にそう話すお母さんは、夜の十一時を過ぎたころその言葉を変える。お母さんはちびちびと酒を舐めながらテレビを見ているお父さんに、 「ショウって普通の子と違うっていうか……理屈っぽいのよね。今はまだいいとして、中学校とか高校でいじめられないか心配で。私が中学校のころ、いじめられてた子って大体理屈屋だったのよ。ねえ、あの子大丈夫かしら?」  お父さんはテレビからお母さんへと目線を移し、 「そういう年になってみなきゃわかんないだろ」  と言った。お母さんは不満そうな声でお父さんに「父親の自覚がない」だとか「どうせ厄介事はぜんぶ私の責任になるんでしょう」だとかぶつぶつと文句をこぼす。再び画面に目線を戻したお父さんの顔は、僕の話を聞くお母さんの顔とよく似ていた。二人は廊下の僕に気づかない。
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