桜舞う季節。彼女がついた嘘。

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 俺が住んでいる秋田県仙北(せんぼく)角館(かくのだて)地区は、桧木内(ひのきない)川の川堤に約四百本ものソメイヨシノが二キロメートルにわたって植えられている、花見の名所として有名だ。  春になり、満開になった桜が見頃を迎えると、県内外から多くの観光客が訪れる。川堤には出店が並び、歓声を上げる子どもたちやカップルの姿で賑わい、桜が散るまでの間盛況が続く。「みちのくの小京都」として名高い武家屋敷周辺にあるシダレザクラとともに、日本さくら名所百選にも指定されており、角館のシンボルとなっていた。  春風が吹く。  桜の花びらが舞う。  そんな光景を窓の外に見ながら、俺は今日も今日とて薄暗い自室で一人、パソコンのモニターと向き合っていた。  家賃三万円のオンボロアパート。  テーブルの上には、昨晩食べたカップ麺の空。絨毯の上には脱ぎっぱなしの洗濯物。  自堕落な生活ぶりを示す部屋の中に響きわたるのは、俺がキーボードを叩く無機質な打鍵音(だけんおん)のみだ。  一心不乱に文字を紡ぎ、一度消して、直喩から隠喩表現へと書き直す。  商社マンとして三年の区切りまで頑張ったものの、小説家になる夢を諦めきれずに脱サラしてからもう三年。  純文学と自称している作品を年に幾つも仕上げては、片っ端からコンテストに出していた。  だが結果はなかなか出ず、落選した回数なんてもう覚えていない。  順風満帆だったはずの俺の人生は、とうに行き詰っていた。  無謀だったのか。どんな形であっても、会社に籍を置いておくべきだったのか。いつまで経っても芽の出ない自分に失望し、塞ぎこむ日々。  そうして四年目の春を迎えた今日、俺の筆は完全に止まる。  食いつなぐ程度のアルバイトしかしていなかったこともあり、小説を書かなくなると段々時間を持て余すようになった。  やることがない。  折角桜の名所なのだし、と外出してみることにした。  自宅を出て細い路地を裏に抜け、やがて川沿いにでる。  川堤の歩道を歩きながら、満開のソメイヨシノを見上げた。  たまにはこうして、気分転換をするのも良いだろう。こうしていればそのうち、また書ける日もくるだろうさ。なんの根拠もないが。  目的なく歩き続けること約二十分。  川の方に向かってキャンバスを立て、筆を片手に椅子に座りうーんと唸っている女性を見つける。チラ、と目を向け、綺麗な人だなとだけ思った。  本当はそのまま、通り過ぎるつもりだった。  ところが、まるで運命という名の歯車にでも導かれるように、俺の目が女性の姿に釘付けになる。  奇妙な雰囲気があった。儚げ、とでもいうのだろうか。ふと、視線を逸らしたその隙に、消えてしまいそうな危うさがあった。  春の陽射しに照らされた肌は色白。ともすると、病弱にすら見える白と対照的に、背中まで伸ばされた髪は艶のある漆黒。  睫毛の長い瞳は切れ長で、ふっくらとした唇は鮮やかな赤──。 「私の顔に、何かついていますか?」  まるで、日本人形のようだな、と感想を抱いていた俺は、自分の足が止まっていることにも、女性に話しかけられていることにも気付いていなかった。 「あ、俺に話しかけてるの?」 「他に誰もいませんよ?」  間抜けな声を上げた俺に、彼女はウフフと笑ってみせた。 「見ない顔だけど……この辺りのひと?」 「違いますよ、観光です。東北地方で桜の花が綺麗な場所を尋ねたら、こちらを薦められまして」  なるほど、と俺が頷くと、再びキャンバスと向き合う女性。  キャンバスの上に水彩絵の具で表現されているのは、桧木内(ひのきない)川の土手を彩る桜の木々だった。  下書きに薄く色を載せ始めた段階であったが、構図はなかなかどうして玄人染みている。 「上手いもんじゃないか」と褒めると、「四季の光景を、形にして残したいんですよ」と彼女ははにかんだ。 「あなたも一緒にどうですか? ……とそういえば、お名前聞いても宜しいでしょうか?」 「高坂だ。……とそれはともかく、俺はキャンバスも絵の具も持ってないぞ」 「ああ、説明が不足していましたね。失敗してしまうことを考慮して、全ての道具をもうワンセット用意してあるんです」  彼女は屈むと、足元にある風呂敷包みをぽんぽんと叩いた。 「なるほど。じゃあちょいとお言葉に甘えてみるかな」 「どうぞどうぞ」 「でも、本当に失敗したらどうするんだ」 「大丈夫です。私、失敗しないので」 「まるでどこかで聞いたような台詞だな」 「ウフフ」  彼女が差し出してきた予備の椅子に腰掛け、キャンバスと向き合った。 「あ、でも大丈夫でしたか? 私、軽率に誘ってしまって──」そう言いかけた彼女の声は、俺が下書きの線を入れ始めるとするすると引っ込んだ。「凄いじゃないですか。正直、驚きました」 「一応、クリエイターを名乗っている人間なものでね。もう何年も前の話になるが、水彩画を描いていた時期がある」  ぽつりぽつりと身の上話を語って聞かせると、彼女は興味深そうに耳を傾けてきた。 「小説家を目指しているのですか。随分と苦労されているのですね」 「無謀なことをするから、苦労するんだよ」と自虐的に笑ってみせると、「夢を追いかけている人は素敵です」と彼女がフォローをいれた。  彼女の整った輪郭線を見やり、ほぼノーメイクなのに気がついた。 「あれ、もしかして君、高校生?」  背が高く大人びて見えるしてっきり成人女性だと思っていたが、見方によっては高校生に見えなくもない。  すると彼女、中空に視線を留めてこう答えた。 「いえ、本来ならこの春から大学生の予定でしたが、残念ながら志望校落ちちゃいまして」 「ああ、浪人生」 「夢も希望もありません」 「申し訳ない。はっきりと言い過ぎた」 「いえいえ、事実ですから」  苦々しく笑みを浮かべたのち、今度は彼女の方から身の上話を始める。  話の内容をかいつまんで説明するとこうだった。  自宅は栃木県のさくら市にある事。今は受験勉強の合間で、父親の実家がある秋田に来ている事。角館には、一週間ほど滞在している予定である事。 「そんな悠長にしていていいのか?」 「いいんですよ。根を詰めて頑張ったところで成果はでません。時には息抜きも必要でしょう」 「まあ、確かにな」  なにやら、自分のことを言われているようで耳が痛い。思えば俺も、少々頑張り過ぎていたのかもしれない。  それからしばらくの間、二人並んで絵を描き続けた。俺は下書きが全て終わったところで。彼女は下塗りがある程度進んだところで今日はお開きとなる。 「それ、一式全部あげますよ」 「いいのかい? と言いたいところだが、こんなに使っておいて返す訳にもいかないよな」  そうですね、と彼女が笑う。暮れ始めの西日のせいか、彼女の頬にほんのりと朱が灯ったように見えた。 「また明日もここに来るのか?」 「はい、来ますよ」 「また俺も来ていいかな」 「そりゃあもう、喜んで」  ほんの気まぐれで、付き合ってみただけだった。もう一度本気で絵を描こうなんて、露ほどにも考えていなかった。それなのに。  無心で筆を走らせているうちに、自分の中で何かが変わる気がしていた。再び小説を書くための、とっかかりになるんじゃないかとそんな気さえしていた。 「なあ」 「はい?」 「君の名前を、うかがってもよいだろうか?」 「なんですか、また改まって。名前なんて、そんな特別な物じゃありませんのに」  そう前置きをした上で、彼女はこう名乗った。  立花玲(たちばなれい)、と。 *
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