獣の目

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獣の目

 背中に貼りつく、固くてひんやりとした地面の感覚。それは少しずつ、俺の身体に侵入してくる。浴槽に水を貯めるように、身体の中を満たしていく。  虫の声。乾いた風。夜の匂い。身体中に張り巡らされた神経が、外部の環境を鋭敏に察知しはじめる。俺はゆっくりと瞼を開き、一面を濃い群青色に塗りつぶされた空を視界に収めた。  それから数秒の間、俺は混沌とした意識のまま、じっと暗い空を眺めていた。しかし間もなく、これが奇妙な夢でも妄想でもない、紛れもない現実であることを察して、がばっと身体を起こした。  ここはどこだ、という疑問が、真っ先に俺の頭の中に湧いてきた。空から冷たい風が吹き込んで、ざわざわと何かが――枝葉を伸ばし生い茂る木々が――揺れる。地面に生えた小さな草がかすかになびいて、俺の足首をそっと撫でる。ここはきっと、どこかの山奥だ。辺りを照らしてくれる街灯の一本も無い、黄昏時の薄暗い森の中にいる。なぜだろう。なぜ自分はこんなところにいるのだろう。さらなる疑問。心臓の鼓動のペースが、わずかに早くなった。  俺はすぐに頭の中を引っ掻き回して、自分がこんな山奥に放り出されるに至った経緯を、思い出そうとした。そしてすぐに、先ほど目を覚まして起き上がったときより前の記憶が、一部すっかり抜け落ちてしまっていることに気付いた。  俺は極力冷静を保とうとしながら、というより、何かの間違いであることを信じながら、必死に記憶を遡ろうとする。  しばらくすると、自分の部屋だと思われる光景が頭の中に浮かんできた。そう、俺は、今年上京して一人暮らしを始めたばかりの、しがない大学生だ。毎朝それなりに早く起きて、高校の頃の同級生と同じ講義を受けていた。休みの日は部屋でだらけて、時々コンビニでバイトをして小遣いを稼いでいた。最近サークルに入って、先輩たちと顔を合わせた。そこで先輩に勧められ、初めてお酒を飲んだ。新しい友人もできた。  そんな可もなく不可もない、普通の大学生活を送っていた。少なくとも、こんな山奥に一人置いてけぼりにされる義理は無いはずだ。  一体何が起きたのか。俺は、思い出そうとする。自分の意志でここに来たのか、誰かに連れて来られたのか。だが俺の記憶は、眠りに就く寸前の瞬間からぷっつりと途切れている。その次に思い出せるのは、背中にまとわりつく固くて冷たい地面の感覚だけだった。  やはり、自分は記憶を失っているのだ。どうあがいても、そう認めざるを得ない。  呼吸が乱れる。息が苦しい。心臓の拍動は体中を揺らし、虫の声と混ざり合い、頭の芯まで響いてくる。空には、月も星も見当たらない。灰色の雲の向こうに、覆い隠されているのだろう。もう間もなく夜が更ける。本当の真っ暗闇が、すぐそこまで迫ってきている。  俺はおもむろに、片足を一歩前に踏み出してみた。履いた記憶のないスニーカーが、ざらついた土を踏みしめている。足に力を入れる。身体を前のめりにして、それから、早足で歩き始める。そうしているうちに、胸の奥から恐怖が滲み出てきた。夜の山奥に一人ぽつんと取り残されているという恐怖が、ここに来てようやく、より強い現実感を伴って、俺を駆り立てはじめたのだ。  気付けば俺は、暗闇の中を全速力で走っていた。どこに向かおうというわけでもない。ただ、このままここにじっと留まっているのだけは、どうしても耐えられなかった。
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