獣の目

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 視界は既に夜のフィルターに覆われており、辺り一面に広がっているはずの緑は灰色に見える。生い茂る草木が、逃がさないとでも言うかのように、しつこく体にまとわりついてくる。肺が締め付けられるように痛む。息を吸い込むたび、乾いた喉が悲鳴を上げる。もっと走らなければ。とにかく死ぬ気で走って、アスファルトの地面を見たい。自分の部屋に帰りたい。光を見たい――。  一瞬、身体がふわっと軽くなる。足元の違和感。背中と首が反射的に反る。全身を駆け巡る浮遊感に頭が真っ白になると同時に、俺は胸から豪快に地面に激突した。  鼻先を撫でる草と土の匂い。膝がひりひりと痛い。木の根か何かで擦ったようだ。俺はますます文明が恋しくてたまらなくなって、地面に手をついて立ち上がろうとした。しかしそこで、俺はある違和感を覚えた。  前方に伸ばされた自分の右腕の、肘のあたりから先に、地面を感じない。宙ぶらりんになって、冷たい風に曝されているようだ。  おそるおそる、俺は這いつくばるようにして少し前へ進んだ。そうして、その先にあるものを目の当たりにした。  まさにあと一歩というところだった。そこには平らな地面はなく、ほとんど崖と言っていいくらいの急斜面になっていた。底の方は暗闇に閉ざされていて見えないが、落ちれば擦り傷程度では済まないことは明らかだった。  俺はそこで初めて、夜の山で全力疾走という暴挙に出た自分を責めた。同時に、この暗闇の中から脱出するというのが、限りなく無謀な挑戦であることを悟りはじめていた。  俺は崖から遠ざかるようにゆっくりと後退し、そのままばたりと倒れ込んだ。疲れとか絶望とか、そういう分かりやすい感情は、不思議とあまり湧いてこない。代わりに、まるで熱にうなされながらみる夢の中にいるかのような感覚に襲われた。自分のようで自分ではない俺が、現実のようで現実でない場所を彷徨う。そこでの体験はひどく恐ろしく、それでいてどこか他人事のようにも感じられる。やがて俺は、誰かの救いの手を求めて走りだす。だがその先には、別の悪夢が待ち構えているだけだ。この無限の迷宮から抜け出すには、布団の中で目を覚ますよりほかない。  朝になるまでじっとして居ようか。俺は真っ黒な空を眺めながらそう考える。朝になれば全て解決する。誰かが自分を救い出してくれる。そんな都合の良い願望は、いつの間にか確信にすり替わろうとしていた。  俺はなんとか、鉛のように重くなった身体を起こした。すぐそばの草陰に、ちょうどすっぽりと身体が収まりそうなスペースがある。ここなら身体を休めることくらいは出来そうだ。俺は身を屈めながら、草の中に飛び込んだ。  太い木の幹に背中を委ねながら、俺は目を瞑る。そうして少し油断した隙に、恐ろしく巨大で漠然とした不安が顔を覗かせた。俺はなぜここに居るのだろう。いつどこで何があって、どういう事情があって、こんな所に来てしまったのか、何一つ分からない。”詳細不明”は、人を恐怖のどん底に陥れるのに最適な方法なのだろう、と俺は他人事のようにそう考える。多分俺は、無意識に自分を守っているのだろう。第三者の視点で俯瞰することで、自分自身がどん底に落ちてしまわないようにしているのだ。俺の無意識に潜む生存本能か何かが、俺が再び正気を失って走り出してしまわないようにしているのだ。  ひときわ冷たくて強い風が、森を駆け回った。俺は思わず薄目を開けて、辺りを見回す。そして、もう一度目を閉じようとする。その刹那、狭まっていく視界に光が見えた。  瞼を擦って目を開く。二つ。小さな光。闇の奥で横に並んでいる。光は僅かに動く。やがて風は止まり、森は静寂に包まれる。――いや、音がする。ほんの微かな音。草が動く音。風のせいではない。それはまるで、何かが草木を掻き分けて進むような……。    動物だ。疲弊した頭の中で、俺はそう思った。  
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