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唇を離して、目の前の彼女と数秒見つめ合う。
カット、という声が耳に入ってきた瞬間、肩が軽くなった気がした。自分の身体が自分のものとして戻ってきた。
やってみると、なんてことなかった。僕が演じた高校生の男の子という役柄にとっては大事なキスだっただろうけど、僕自身に戻ってしまうと「よし、仕事を終えたな」という感じ。
OKも出たし、自分たちで映像の確認もしたし、このシーンはこれで大丈夫。
ちゃんと最低限の期待には応えられたと思う。
「緊張した?」
座り込んで次に撮るシーンのことを考えていると、隣に日奈が寄ってきた。
今は僕と同じ制服の衣装を着て清純な女子高生然としている。が、普段はちょっと派手な大学生。
僕よりもお喋りで溌剌とした性格の姉代わりのようなその人に、僕は肩をすくめて見せた。
「別に。そうでもない」
「まあ、あたし相手だし今さらって感じかあ。てかさっき思ったんだけど直紀くんまた背、伸びた?」
「あー、どうだろ。多分」
「高校生だし成長期か……いっぱい大きくなれよ~」
「やめろ、鬱陶しい」
肩を組まれそうになり、それを拒否する。日奈が不満げに頬を膨らませた。
「何よ、反抗期? いや思春期か?」
「あんまベタベタしてるとまたネットになんか書かれるだろ」
「あん? そんなん放っておきなよ。いーじゃん、どうせ微笑ましいねーとか思われるだけなんだから」
そのほうが好感度上がってメリットあるし、と日奈はあっけらかんと笑った。確かに日奈の言う通りだけど。
僕はふっと黙り込む。
日奈の大きな瞳がぱちぱちと瞬きをして僕を観察している。
「もしかして、彼女いるの?」
「いない」
「でも好きな人はいるんでしょ」
「……」
僕よりも多少大人で物事を深く考えない日奈。彼女はため息をひとつ吐き、僕の肩に触れた。
「噂であることないこと書かれるのは割り切らなきゃ。直紀くんも、直紀くんと付き合う相手も」
「日奈も割り切ってる?」
肩の上の柔らかい手が、ぽんぽんと二度動いた。
「まーね。てかあたし、芸能人としか付き合ったことないし。一般人だったらどうかわかんないけど、お互い同業者だし割り切るしかないでしょ」
その答えは最適解でとても大人な内容に聞こえる一方で、今の僕には遠くの出来事のように靄がかかって見えた。自分はまだ、子どもなのかもしれない。
僕は想太のことが好きだ。
顔を思い浮かべるだけで心拍数が上がる気がする。恋をしている。
だけどそこには自分が俳優で、想太がアイドルだという意識はあまりない。
ただ、クラスメイトを好きになっただけ。
「直紀くんの好きな人誰ぇ? あたしの知っている人?」
「日奈には絶対言わない」
「えー。お姉ちゃん寂しいぞー。えーんえーん」
女優のくせにわざと下手くそな泣きまねをするから、おかしい。笑いそうになる。
通りかかったスタッフさんに仲良いねと苦笑されて、慌てて離れる。日奈がわざわざ「こいつ今思春期で冷たいんです」と冗談めかして返事をしている。
幼い頃にこの世界に放り込まれて当たり前になっている、僕にとっての日常の風景。でも物足りない。
一緒にいたい人は今、学校にいる。
僕は同じクラスの結城想太に、恋をしている。
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