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幽(かそけ)き旅行後記(2)
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アフガニスタン ―
ペシャワールから直行バスで8時間掛かってアフガニスタンの首都カブール(カーブルとも表記)に着いたのは夕方だった。そこでいつものようにすぐ宿屋探しだが、ペシャワールと同じ名前の旧市街にあるグリーンホテルというところに泊まった。二つ星だが、温水シャワー無料。重さ7キロにも満たないリュックサックを部屋のベッドに投げ捨て、街へ繰り出す。
ここアフガニスタンは多民族国家だ。山岳地帯が大部分を占め、平野はごく一部分。北部はシルクロードと接していて、『文明の十字路』と呼ばれるお国。商いの物資は、穀物・金・銀・宝石類・香料・カーペット・毛皮・猟銃・武器など。古くから鉱脈が数多く存在することが知られており、もっとも歴史があるのは青色の宝石ラピスラズリで、こういったものがバザールで多く見られる。又、街を歩いているとアジア人顔なのに透き通った青い目の人に出くわして思わず立ち止まってしまったものだ。メロンの露店市場
このようにして3日ほど過ごしているうちにあるアフガン人と知り合い、見た目にも優しい人のようなので私は警戒心を起こさない。「家に遊びに来ないか」と誘われて、断る理由もないことから、「じゃあ~、お邪魔しよう」となって、一緒に行く。連れて来られたところは平屋建ての普通の家。
「どうぞ」と彼は言ってドアを開ける。
正面に見えるのは事務机を前に平然と腰掛けている一人の壮年。私は家庭的な雰囲気ではないと気付いたが、事務机に進む。
「パスポート」と、この壮年は尋ねる。
私は黙ってパスポートを渡す。
「オッケー」と彼はパスポートの中身を一目して、退いてもいいという仕草をする。
私はドアに向かい、案内してきた人がドアの前で待機しているものの、目を合わすだけで声も掛けずに外に出た。
数年後、理解したのだが、当時、日本赤軍が中近東を中心に潜伏していたのを当局は問題視していて、この平屋建ての一軒家はもしかするとカモフラージュした警察の建物だったかも知れない。
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アフガニスタン(続) ―
カブールからバミアン(バーミヤン)まで237kmだが、山間なのでローカルバスで10時間前後を要する。このバミアンは1世紀から6世紀まで仏教の中心地として栄えた。常時数千人が住みつき各地からの巡礼者が絶えなかった。7世紀には玄奘がこの地を訪れ、その時の記録が「大唐西域記」に書き残されている。
当地に到着の翌日、絶壁に彫られた2つの巨大な立仏像を少し離れたところから見ていると一頭の黒い牛を連れた10歳前後の少女が近づいてきた。頭を覆う布をしているが、ヒジャブ(ヒジャーブ)と言うものか。
「写真を取ってもいい?」と尋ねる。
「オッケー」と、一つ返事。
数回シャッターを切る。
「ありがとう」
このあどけない少女は手の平を差し出す。ちゃっかりしているなと思って笑みを浮かべ、一枚の紙幣を渡す。するとその紙幣に目が釘付けになって、一目散に牛を引っ張って駆け去った。百円札をあげたような私の感覚だが、ここでは4、5日は暮らせる大金らしい。
黒い牛飼いの少女 (1976年、撮影)
左端に有名な石窟仏が見えるが、この娘も今や55歳から60歳であろう。戦禍に巻き込まれることなく幸せな生活を送っていることを切に望む。
胃腸の調子がまだ悪いこともあって、多くの遺跡を巡るとまではいかなかったが、バミアンで二晩過ごしてカブールに戻る。数日後には、直行バスでイランの首都テヘランを経由し、トルコのイスタンブールまでの長旅をする。バス料金は記憶が定かではないが、片道13.5ドルか16ドルだったと思う。1ドル300円計算で4000円から5000円という値段。又、ここカブールの街の雰囲気といい、気候といい、健康を回復するのに最適な環境であった。
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アフガニスタン(続) ―
まばらな人影に驚きもし、忙しく行き来する人に目を見張る早朝のカブール。私は指定されたイスタンブール行き直行バスの集合場所に向かった。着くと奇遇にもパキスタンで火口湖に一緒に行った日本人の一人と出会う。私たち以外の乗客と言えば、地元の人ばかり。
「僕一人で乗るのはちょっと不安だった」と70キロの体重を優に超える彼が言う。
「ちょうどいい具合に出会ったね」と、私は痩せに痩せて45キロを切っていた。
このバスを利用する旅行者はよっぽど物好きと見える。なぜなら、4000キロ超の距離を3泊4日で走破するのだから。この距離は日本列島を縦断しても及ばない。バスは満員で座席は木でできていたと思うが、とにかく堅いものだったと記憶する。若さゆえ、もちろん、私は物ともしない。振り返って思うに「病体にもかかわらず頑強だったんだ」と。
アフガニスタンを抜けてイランに入るには1000キロの道のりがある。途中から右手には山脈が連なり、左手には砂漠があって遥か向こうに山々がうっすらと見える。瓦礫の上に砂漠の砂がうず高く積もって道を塞いでいるので、それらを縫うようにしてバスは走った。夜も更けて来るとどこかで宿泊せねばならないが、この辺りにホテルがあるとは思われない。そうこうしているうちに運転手が今夜はここで一泊すると言う。全員バスから降りて適当なところに敷物をして寝床をこしらえる。夕食が運転手の手から配給された。食べるとまたまた下痢に悩まされる。今宵の月は満月で真昼のように地上を照らして明るい。高く積もった砂山の影に隠れて用を足すしかないが、探しているうちに100メールぐらい野宿のみんなと離れてしまって、その光景はアラビアンナイトっぽくて、幻想的だ。
山脈伝いを右手にバスは走行
ここ南天の満月の大きさは尋常ではない。太陽の大きさに匹敵する。大きな円い電灯を夜空に吊し上げたようなもので、その夜から月天子に見守られてか、不思議にも下痢はピタリと止んだ。
早朝、出発。旅行者から「高山には山賊がいるから不用意に近づかないこと」と言われていた。急に山から下って来てバスジャックされるかも知れないという不安を抱きつつ、イラン国境に無事に着いた時、ホッと胸を撫で下ろした。
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イラン ー
イラン国境では税関吏がバスに乗り込んで来て、先頭から全員の乗客を眺め回すだけ。この税関吏が私たちアジア人の顔を見て何も言わないで、その後、すんなりと通関できたのは幸いだ。アフガニスタンで出会った欧米の旅行者が言っていたが、「イラン入国の際は大麻の所持検査を厳重に受け、今では監獄に20人前後の欧米人が留置されて退屈な日々を送っている」と。この国境からイランの首都テヘランまで1000キロの距離。
テヘラン着。標高1200mで、かなり大きな町だ。この日はホテル泊まり。昨夜、野宿で被った砂をシャワーで洗い流して休んでいると、ホテル近くで女性の叫び声がした。何だろうと思ってホテルの玄関へ向かおうとすると、フロントに受付係りがいた。
「今、ホテルの近くで叫び声が聞こえたんですけど」
「泊り客のイギリス人女性がホテルの前で突然、誰かにからだを触れられたって言うんです」と受付係り。
「何か盗られたものでも?」
「いや、何も。いつものことですよ」
ちょうど、その時、宿主がやって来た。
「ここでは外国人女性への触り魔が目に余るわい」と憤慨して言う。
イランの法律はイラン人男性に寛容なのであろうか、日本では痴漢で訴えられてしまう。
現在のテヘラン・グリーンストリート
翌朝、出発までには少し時間があるので、散歩すると道路を行き来する車の数に圧倒される。交通地獄と言うのか、排気ガスで多くの街路樹は枯れかけている。信号機もないし、その上、人間より車が優先だ。それから、食事はというとこの国はカバブ(ケバブ)しかないのかと思われるほど。北へちょっと行ったところにカスピ海があって、キャビアの有名な産地がある。しかし、値段が高い。他、ペルシャ絨毯と言う高価なものもあるが、とにかく、通過するだけなので、観光する余裕もない。トルコのイスタンブル―ルまであと2000キロ強。バスは予定通りテヘランを出発した。
翌年12月、イラン革命の狼煙が上がって、当国は数年、閉ざされることになる。
15
トルコ ―
バスはイランとトルコの国境に差し掛かる。イラン出国の際は聞くところによると、麻薬所持者には厳しい罰則が課されると。悪くすると死刑に処せられる。だから、手荷物の検査は厳しいものであろうと想像していたが、予想外に簡単であった。トルコに入国する際もスムーズに行った。いよいよヨーロッパとアジアの、そして、キリスト教とイスラム教の接点の国を横断することになる。最終目的地であるイスタンブールまでアト1000キロの地点で2回目の野宿。北に真っすぐ進むと「黒海」がある。夜が明けて早朝、出発。
イスタンブール着。この都会はボスポラス海峡を挟んでヨーロッパ・アジア両岸にまたがっている。バス同乗の日本人仲間とフェリーで公官庁が集中しているヨーロッパ側のイスタンブールに。それから、ホテル探し。4人用の部屋しかなく、安いホテルなので仕方がないかという具合で、少し落ち着いてからガラタ橋へ。夜も遅くなったので、ホテルに戻ると二人のヨーロッパ系の若い旅行者と相部屋になる。明朝、私たちはブルー・モスク(正式名はスルタンアーメット寺院)へ向かう。綺麗な寺院だ。入場の際、靴を脱がなければならないが、そのまま中へ持って入れた(今はビニール袋で靴を包んで脱がずに鑑賞できるようだ)。他に面白かったのはトルコ式のトイレで、個室内には水道の蛇口と水汲み用の小さなバケツが備え付けられている。これは手で局所を洗浄したり、排泄物を流すためのものだ。
イスタンブールのパノラマビュー ブルー・モスク(右に見える大きな建物)
トルコ風呂も興味深い。相棒と一緒に行くとキレイなお姐さんと思いきやプロレスラーまがいの三助さんがいて洗ってくれるが、洗ってくれるというよりも垢をむいてくれると言ったほうがよい。トルコには1週間以上滞在したが、私は鉄道でイスタンブール急行を使ってドイツのミュンヘンにまもなく向かう。相棒はかねてからトロイの遺跡を見たいと言っていたので、トルコ観光はまだ続けるそうだ。
それから、トルコは親日家が多いのにびっくりした。これには歴史的な背景があって小話を一つ。トルコのエルトゥールル号が日本と繋がりを作るため、1889年に出港。明治天皇にトルコからのプレゼントを届けた。しかし、帰りに強風によって沈没。その時、和歌山の串本町の住民がトルコ人を助けて食料などを分け合い、皆が祖国に帰るまで世話をした。その後、1985年にイラン・イラク戦争が勃発した折り、日本に感謝しているトルコは、イランに残された日本人215名をトルコ航空の飛行機で迎えに行った。このようにしてトルコ人は日本に恩返しをした。
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トルコ~ブルガリア~ユーゴスラビア~ドイツ ー
長旅は同行者と出会うケースが往々にしてあるが、人生の旅もそういったものかも知れない。アフガニスタンからトルコまで一緒だった相棒とは2週間の旅を終えて、別れ際、「又、どこかでね」との言葉を交わして私は駅へと向かった。
ドイツのミュンヘン行き列車は停車駅が少なく、ブルガリアの首都ソフィアの駅にやっと止まる。見ると近代的な建築でとても大きな駅だ。この列車に乗って覚えていることは殆どないのに、この駅だけが妙に頭に残っているのだが、後年、パリで学生と話す機会があり、ソフィア大学への留学が話題に上ると当駅の記憶が甦った。又、かの有名なフランス人歌手シルヴィ・バルタンが現在住んでいる実家が、このソフィアから50キロメートル程離れたところにあるという話も聞き及ぶ。
ソフィア市 町の中心部
ミュンヘンまで40時間前後の長い列車の一人旅。旅の情感溢れる窓外の景色に浸り、ドイツにまもなく足を踏み入れるという充実感を味わいながら、食堂車で呑気に手軽なサンドウィッチを頬張っていた。
ユーゴスラビア(当時)を経由し、オーストリアを通過したのかどうかは定かでないが、そうこうしているうちに列車はドイツのミュンヘン中央駅のホームへと滑り込んだ。
* シルヴィ・ヴァルタン(Sylvie Vartan, 1944年8月15日 - )はフランスの歌手。ライヴ・ステージが定評のエンターテイナーで、音楽レパートリーはロックの他にジャズやバラードまで幅広い。ブルガリア生まれで8歳からフランス・パリ育ち。1961年リセ在学中の17歳でパリ・オランピア劇場に初出演。アメリカ音楽が台頭し始める中、ロック歌手としてデビュー。一方で、1964年に「アイドルを探せ」(La plus belle pour aller danser)が世界中で大ヒットした。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から一部引用。
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ドイツ ー
ミュンヘンはドイツ南部にあり、金融、交通、文化の中心都市と言われて久しい。又、ビールにソーセージとグルメな街の感じがする。それはさておき、先ずは急いでユースホステルを見つけて今夜のベッドを確保せねばならない。
Siegestor ー ヴィクトリーゲート
ドイツに行った日本の友人から「ドイツに行くならサウナに行け」と言われていたので、なんでそこまで熱っぽく語るのかわからなかったが、行ってみて初めて理解した。あらましは次の通りだ。
翌朝、ユースホステルの受付嬢にサウナの場所を知っているかと尋ねてみた。「郊外に大きなサウナプールがあるが、普通のサウナなら市内のどこにでもある」と。この近くに彼女の行き付けのサウナがあるということで教えてもらった。
「持って行くものとしてはバスタオルだけど、持っていなければ、当サウナで貸してくれるわ。それから、午前中はじいちゃん、ばあちゃんが占拠しているから、若い女の子がお目当てなら、午後に行きなさい」と。別に若い女の子を探しているわけではないが、彼女の心遣いに礼を言う。
フィンランド式サウナ
街で簡単な昼食をして教えてもらったサウナに行く。レセプションで手続きを済ませて着替え室に行くと男女の部屋が分かれていないのに気付く。すると肌を露わにしたカップルがサウナに行こうとしている。「ええ? これってあり?」と目のやり場に困った。フィンランド式サウナの部屋に入ると数人の男女が局部を隠すでもなくバスタオルを木の床に敷いて気持ちよさそうにからだを横たえている。私も同じようにバスタオルを敷いて横になっていると、次から次へと汗が噴き出し清潔感と爽快感に心が満たされるのであった。
翌日の早朝、オーストリア経由でスイスのルツェルンに行くためにミュンヘン郊外に出てヒッチハイクを敢行した。
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ドイツ ~ オーストリア ー
ここはミュンヘン郊外。道路脇で親指を立ててヒッチハイクをしていると、ものの5分も経たないうちに目の前に車が止まった。
オーストリアに車で行くには山道を上らなければならない。ドライバーは見た目には30そこらの男性。車の乗り心地は必ずしも良いとは言えないが、文句は言えまい。走行中、余り話はしなかったが、突然、彼は23ドルの相乗りの賃金を要求して来る。前後に車が見えないし対向車も殆どなし、こんな人里離れたところで降ろされると次の車を簡単につかまえられるかどうかわからない。高額の支払いを要求されているわけでもないので、彼の言った金額を手渡す。
車はオーストリアの国境に達し、パスポートを見せるだけで、簡単に通過。暫く走って今度はスイスとオーストリアの国境に着く。オーストリア側から30メーター程行くと今度はスイスの税関吏が待っている。片田舎の検問所であるのか、中年のおじさん一人しか働いていない。先ずはパスポートの提示。日本の旅券を見せても反応がない。まるで日本を知らないようだ。次に私のリュックサックを細かく調べ出す。最初に出て来たものは羊皮のコート。このコートはヨーロッパの冬に備えてイスタンブールで買ったもの、新品同様だ。この税関吏はこれをスイスに持ち込んで売る気かなという顔付きでコートの前後を丹念に見回す。次にリュックから一つ一つ所持品を取り出して調べる。最後に所持金は幾らかと訊く。「17ドル」と答えると「リターン」と言って、オーストリアの税関のほうを指し示す。私を乗せてここまで連れて来てくれた彼は気の毒がって、先に払った23ドルをその場で私に返してくれた。
スイスに隣接するオーストリアのフォアアールベルク州
私はとぼとぼオーストリアの検問所のほうに向かって歩くが、その時にある旅行者が私に語ったことを思い出した。
「国境で両検問所に入国を拒否されて、もうかれこれ10年、二国の間を行き来している人がいる」と。
オーストリア側は若い税関吏だ。追い返された旨を伝えると、笑って通してくれる。「何で笑うんや? 面白くもないのに。」 しかし、「通してくれるだけでもマシだよな」と思い返した。この国境からさほど遠くないところに小さな村があり、幸いにも郵便局がある。日本に残してきた旅費を送金してもらうように実家に頼んだが、この小村に届くのはそれから10日後であった。
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オーストリア ~ スイス ー
ここはスイスとの国境近く、オーストリアの片田舎。野原と小村が一つあるだけだ。幸い空気がとても新鮮で、又、好天の日が続いたが、この村にはユースホステルもないし、ホテルがあったとしてもホテル代を払える所持金もなし。手持ち無沙汰で何もやることがないのだ。
昼間は送金がまだかまだかと郵便局に足繫く通い、パン屋に行ってパンを買いジャムやバターを付けて食べ、又、チョコレートをサンドウィッチのように挟んで食べることもあった。夜は野原でシュラフに潜り込む。
ある日、田舎道をアジア系の女性が手に本を持って、読みながら歩いてこちらにやってくる。先方も私に気付いて足を止め、お互いすぐに日本人だとわかったのか、「こんにちは」と挨拶した。
「こんなところで日本人に会うなんて思ってもみなかったわ」
「僕もびっくり」
「何をしてるの?」
「スイスの国境で入国を断れられて、ここで日本からの送金待ち」
「そう」
「何を読んでるのかな?」
「小説」
「ドイツ語で?」
「そう」
こういった簡単な会話を済ませて二人は別れた。その後、道で再び彼女と出会ったのだが、この時は二人のオーストリア人の女友だちを連れ立っていた。談笑後、私は三人一緒の記念写真を取った。
フォアアールベルク州のスイス国境近く、とある小村で 1976年撮影
彼女の女友だちを見ると高校生に見える。今、60歳ぐらいだな、どんなマダムになっているんだろう?
この小村に滞在して10日後、送金が届いた。すぐさま鉄道駅に行ってスイスのルツェルン行きの切符を購入。列車内にスイスの税関吏がやって来て私のパスポートを一目見て終わり、いとも簡単に国境を通過したのだった。
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