幽(かそけ)き旅行後記(1)

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幽(かそけ)き旅行後記(1)

1 ー 香港 ー  1972年の冬の2月、ナホトカ経由でソ連邦(現ロシア)・北欧を旅してパリに到着した私は一旦、帰国し、1976年4月に南回りで陸路、パリを目指した。大阪空港(伊丹空港)から数時間後、香港の啓徳空港(当時)に降り立つ。税関を通り過ぎる際、女性の税関吏が私の首に掛けていた紐に気付いて何も言わずに腕を伸ばしてひょいと持ち上げる。この動作に私はビックリ。日本なら調べる際、何なのか見せなさいと言うはずだ。紐の先にはパスポートを入れる布袋があった。この税関吏はそれを確認するだけだったが、とにかく、無事に通関。 04266e88-4b3c-4f94-8e37-cf20ee028e79香港 夜景  ユースホステルで宿泊し、翌日は露天市場に行ってみた。ここでは商売人がヤンキー座りで物を売っている。ある露天商のおばさんの前で商品を眺めていると突然つむじ風が吹いて来た。おばさんは散らばった商品をかき集めながら私に話し掛ける。中国語なのでわからない。ちょうどその時、通りすがりの男性が「天女が通り過ぎたと言っているんだよ」と笑いながら英語に訳してくれる。「天女?」と私はつぶやく。そうするとおばさんが続けて、「これからどこへ行きなさる?」と尋ねる。「タイ、ネパール、インド」と私。彼女は「インドで福徳薫るどなたかと会うじゃろ」と言う。言っている意味が正確にわからなかったが、インドでいい人に会うというのはわかった。  訳してくれた男性が別れの挨拶をし、私も去ろうとすると露天商のおばさんは私にちょっと待ってというジェスチャーをして、何かを紙に認め、書き終わると私にその紙を見せてくれた。そこには漢字で「四柱推命」と書かれている。四柱推命と言えば、中国で有名だが、当時、日本の国民にはまだ余り知られていなかった。幸いにも家の近くに四柱推命で占う人を知っていたので、私はすぐに理解した。でも、なぜ彼女がそのように書いたのかわからなかった。自分は商売人であるけれども、「占い師」でもあると言いたかったのであろうか。とにかく、お礼を言ってその場を離れた。  その後、この市場を見て回るのだが、かなりの大きな敷地面積に露天商がひしめき合っているのがわかった。 2 タイ国 ―  香港で2泊してタイ国へと向かう。首都バンコックでは日本で知り合ったタイ人の友人が迎えてくれた。彼の家には母親と妹がいるので寝食は共にできないが、学生の多い安全な宿屋を探してくれて、その後の10日間の滞在を容易にした。妹さんは学生で時間もあるので観光案内役を買ってくれるとのこと。  4月の半ばを過ぎた都会のバンコックは気候もあろうが、車の往来が激しいので、二酸化炭素の排出量も多いのか、とても暑い。冷房完備の茶店を探し出して、一日に幾たびか行ってからだを冷やす。妹さんと約束をして、市内の外れにあるストゥ―パ(卒塔婆)を見学した。このストゥ―パはタイ国内のあちこちにある。旅行者ということもあって現地の事情に疎いのでタイ人の彼女がいると心強い。中心街を抜けると暑さは和らいで、空気も新鮮な香りがして心地よい。見物したストゥ―パはさほど損傷もなく、色とりどりなのだが、ケバケバしているという印象を私に与える。彼女と記念写真と洒落込んだり、はしゃいだりして、楽しい一日を過ごした。 5128e354-f899-4b7d-9f21-51560ee470a4アユタヤ遺跡 菩提樹の根に挟まった仏頭  私の友人は日曜日にアユタヤ遺跡巡りを提案する。車で二時間程の距離。現地に到着すると遺跡がまとまってあるわけでもなく、あちらこちらと長い距離を移動しなければならない。「ホラ、あそこで人が根っこの間から覗いているよ」と私。「人でなくて仏頭だ」と彼は応える。「へえ、子供がふざけて根っこに頭を押し込んだのかな?」と言うと、「違う。仏の頭が転がり落ちて幾世紀も掛け、木の根っこが頭を押し上げて、あのような形になったんだよ。でも、そのように聞いている話しだけどね」と。又、ここには日本人町があって、今は古びて何もないが、山田長政と言えばこちらではちょっと知られているサムライだと彼は説明してくれる。このサムライは戦国時代の日本で生まれ、堺の商人・呂宋(るそん)助左衛門と同時代の人だ。当時、朱印船貿易が盛んだった。  やがて暗くなってきたので、その日の観光はこれで終わりにして帰路に就いた。 3 タイ国(続) ―  タイの友人、ソムチャイは次の日曜日、車で2時間ぐらいのパタヤという海水浴場に妹と一緒に行こうと誘ってくれた。早朝出発して夕方帰路に就こうという予定。当時、タイの車で冷房車というのは皆無に等しかった。彼の車もそれに洩れず、バンコックからパタヤまで窓を開けっ放しで快走した。  8時半ごろ、パタヤに着く。潮風が心地よい。ソムチャイは数年間、日本語の勉強をするためにバンコックのタマサート(タンマサート)大学から日本に留学していたので、当然、日本語が流暢で、よもやま話が楽しい。彼は「このパタヤは今までアメリカ駐留軍が休暇を幾度も過ごしたので発達したのだ」と説明してくれる。この駐留軍というのはベトナム戦争に派遣されたアメリカ軍であり、徐々に撤退しているのだが、私がタイ国に滞在中、サイゴンが陥落した。 229ec227-35a9-4dfa-8ad2-656af982cec3タイ国 パタヤビーチ  三人はパタヤビーチに直行。当時、こじんまりとした小ぎれいなビーチだったが、今では巨大なビーチリゾートとして世界に知られるようになった。そこで、ソムチャイが「妹と水上バイクに乗ったらは?」と提案。妹も楽しんでもらいたいという兄の心遣いであろう。操作は簡単の一言に尽きる。妹さんが滑り落ちないように私の筋肉隆々としたお腹に(笑)しっかりと手を回すように私は願い出る。バイクはかなりのスピードで海上を駆け巡る。そうこうしているうちに、バイクの傍ら、水面下に何かが忍び寄ってくるのが見える。なんだろうと思って速度を落として見ると水中にかなり大きな魚とも思える黒い影。背びれのようなものが見えたので、イルカかなと思ったが、この辺りにイルカがいるとは思えない。急いで海岸に向かう。ソムチャイはニコニコして私たちを見ているのだが、滑り込むように砂浜にバイクを乗り上げ、二人は彼のところに走り寄る。何事が起ったのかという中腰の彼に向って、「サメだ!」と私は叫ぶ。それを聞いた彼は慌てるでもなく「サメなんか、このところに居ないよ。潜水夫か、潜って楽しんでいる人たちじゃないのか?」と。「ゴメンごめん、びっくりさせようと思って妹さんと仕組んだお芝居なんだけど、失敗に終わったみたいだね」と言うと、彼の高笑いが周りの人を驚かせた。  翌日の月曜日、私はネパールに向けて出発した。 4 ネパール ―  5月初旬、バンコックの空港を後にした私はヒマラヤの山懐に抱かれたネパールへ。ここはお釈迦さんが生まれた国だ。観光客は大富豪からヒッピー、登山家、仏教徒、ヒンズー教徒までと多彩。  到着の日、上空からのヒマラヤ連峰はあいにく雲に隠れて見えなかった。首都カトマンズに降り立った私は空港の余りの小ささに驚く。大都会の空港を見慣れてきた私にはミニチュア模型の世界に足を踏み入れたような感じだ。タラップを降りて徒歩で税関の建物に向かう。すると、旅行者を待っているのか、小学校高学年くらいの男の子が十数人、税関の先のほうに見える。  通関後、「ホテル、ホテル」と数人の子どもが声高に叫んで寄ってくる。私は最初、見知らぬこれらの子どもを警戒したが、子供たちの純朴さにひかれて一人の子どもに「オッケー」する。案内されたのは簡素なホテルで、オーナーも人のよさそうな顔をしている。そこで、一泊。  翌朝、私を当ホテルに連れて来た子供にエベレストはどこかと尋ねる。 「そこだよ」と子供は前方に顔を向ける。  私は彼の指し示す方角に顔を向けたが、黒い大きな岩肌のようなものは見えても山とおぼしきものは見えない。 「お客さん、もっと頭を上に向けて」と子供が言う。  私は地上に近いところを探していたのだ。白雪のエベレストは雲の遥か上空にあって、その偉容に私はしばらく言葉を失った。 bf1c0a6e-1c7b-483c-99d2-68e3419e092bネパール エベレスト山  その後、カトマンズ市内を見て回る。道を歩いているとヒッピーらしき日本人と出会った。 「どこで泊まっているんだい?」と気軽に私に話し掛けてくる。 「市内の外れ」 「中心街に泊まったほうがいいな。便利だし、、、」 「じゃあ、一緒のところで泊まろうか」と応えて、一室を二人で分け合った。 * エベレストは、チベット語でチョモランマ、ネパール語でサガルマータという。 5 ネパール(続) ー  翌日は、昨日出会った同室の日本人と中心街を散歩する。古ぼけた家屋が立ち並ぶ通りを歩いていると寺院がそこかしこにある。ヒンズー教の寺院と思われるが壁に複数の木彫りの男女像が仲むつまじく何も隠さず裸で抱き合っているのを見ると、この国はなんて開放的なのだろうと感嘆する。  散歩をし終わって同室の彼は大麻を吸い出す。大麻はヒッピーが多く集まった60年代、公認されていたが、70年代には公的に禁止されていた。  「おい、大丈夫か、昼間っぱから?」と問うと、彼は「何、平気さ、警官も吸ってるから」と言う。確かに、日中、警官が眠たそうな目を擦りながら街を歩いているのを幾度か見掛けた。 98a603ee-959a-41a2-89cb-835384ac3557撮影年不詳 ー 1976年当時の面影を残す通り  数日後、在ネパール日本大使館から日本人観光客にお知らせとあって、「昨日、登山口に一人で向かっていた日本人女性が山で追いはぎに遭い殺害されました」と注意喚起。「なんで又、女性一人で?」と私は訝しがったが、身ぐるみ剥がされ裸死体で道路脇にあったそうだ。土地感覚がなければ、あるいは、見知らぬ土地では何が起こるかわからない。  5日程して、私はネパール人経営のレストランにゆく。「そば」があったので、喜んで注文したのだが、何か味がおかしいと感じるものの、思い返して「これがネパールの味だ」と全部、食べた。その直後、下痢に悩まされる。まさか腐っているものを食べさせるとは思ってもみない。眠りに就いている時に急に便意を催して、とにかく気が付いた時にはもう遅い! 同室の相棒は大層心配してくれて、私一人のほうが楽であろうと気を利かし、「何かあったら呼んでくれな」と言い残して、当ホテルで会った彼の旧友の部屋に移り替わる。それにしても持参の正露丸を服用すると効果てき面だ。回復に安堵の胸を撫で下ろす。しかし、その後、数か月に亘って下痢に悩まされ続けようとは!  インドからやって来た日本人の旅行者に出会って、これからインドへ行くと伝えると、「インドは今、40度を超える暑さだよ。どこへ行くか知らないけど、6月はモンスーン。その直前は気温が下がるのでその時が移動にいいんじゃないか」と教えてくれる。  インドの首都ニューデリーに飛行機で向かったのは5月中旬に入って間もない頃だった。 補注 : 2002年、世界の国一覧表(外務省編集協力)がインドの首都名をニューデリーからデリーと修正したのを期に、教科書類もニューデリーからデリーに改められ、現在ではデリーが首都と教育されています。(平凡社地図出版から一部引用)  6 インド ―  インドと言えば、魂のふるさと、悠久の大地、古い歴史と数多くの遺跡、これら全ての魅力をひとことで言い表されない。人物はと言うと、ゴータマ・シッダールタ、ガンジ―、ネルー首相、詩聖タゴールが思い浮かんでくる。シッダールタは一般に「釈迦」の名前で知られる。仏教の開祖であり人間の一生は生老病死、宇宙は成住壊空の繰り返しと説く。ガンジーは非暴力主義者であり惜しむらくは凶弾に倒れたことだ。  もう半世紀近く前の訪印なので、私はどこをどう旅行したのかはっきり記憶にないが、インド滞在は一カ月に及ぶ。しかし、次の3つの場所はなぜかよく覚えている。ブダガヤ、ヴァラナシ、アグラだ。順次、追ってみよう。 0ab3349e-1bc7-47fd-9e35-6e5b753f1ee9インド ホーリー(春祭)  ネパールからインドの空港に降り立った途端、熱暑を感じる。リムジンバスでニューデリーに向かう。近代的な建物が立ち並んでいて欧州となんら変わらないが、オールドデリーは旧市街地で古い建物が多い。私はからだが不調なこともあってここデリーでは半日の観光のみ。3日後、鉄道とバスを利用して、おおよそ千キロを走行しインドの東の方に位置するブダガヤに行く。    ここは釈尊が悟りを開いたという菩提樹があるところだ。しかし、往時の菩提樹は枯れて他のところから運んできた菩提樹に植え替えられたという。ホテルはというと安宿だが、若い日本人旅行者がよく利用するようで、溜まり場的な雰囲気を醸し出している。私が着いた時には既に十数人の日本人客が寝泊りしていた。この宿泊客の中に20代後半と思われるカップルがいて、女性は目のクリクリした美人顔。話すと自分のことを「僕」と言う。これを初めて聞いた時は面食ったが、話し続けると慣れて来るものだ。後の話になるが、ブダガヤを離れて1年くらいして、私たちはパリの地下鉄で突然出会うことになる。まるでフランスからインドにワープしたかのようで、私たちはしばし呆然と向かい合った。  当ホテルは雑草の生えた大きな広場の前にポツンと一軒あるのだが、お釈迦さんが悟りを開いたという菩提樹はこの広場の端にあった。今はこの菩提樹を柵が取り囲んでいるが、当時はなかった。又、お寺は目立たなかったのか、付近にあったという記憶がない。ところで、ブダガヤを訪れて以来、次の二つの疑問がずっと頭にこびり付いて離れない。お釈迦さんはなぜ苦行を止めて少女の差し出した乳粥を飲んだのだろうか。又、なぜ悟りを開くのに樹の下でなければならなかったのだろうか。  ある夜、ホテルの明かりを目指して歩いていると前方1メートルぐらいのところでやにわに女性が立ち上がる。用を足していたようだが、その周りに2、3人の子供の姿が浮かび上がる。まさか私が真正面に歩いてくるとは思わなかったのであろう。それほどこの辺りは真っ暗闇なのだ。  インドでは時間がかたつむりの速度で進む。このことに関しては面白い話がある。ある日本人がインド人と約束の時間と場所を決めた。しかし、待てど暮らせどそのインド人は姿を現さない。しびれを切らしたこの日本人は仕方がないのでホテルに戻る。すると、約束の時間から8時間後に当のインド人から電話があった。 「ミスター、あなたを探したけどどこにもいない」 「どこにもいないって、約束の時間をとうに8時間も過ぎてるよ」と日本人。 「ああ、時間に遅れた」とインド人。 「1時間は待ったけど、酷いじゃないか!」と日本人は怒り始める。 「えっ、今日中にちゃんと着いたろ? だから約束は守ったよ」と。   笑うに笑えない話であるが、このように時間の概念、感覚が日本人とインド人とでは全く異なるのだ。  ブダガヤでは地上の薄明かりと満天に散りばめられた星々の光、風に揺らぐ木の葉の囁き、時折り聞こえる泊り客の笑い声に私は癒されんばかりである。胃腸の回復の兆しが見え始めたのを機に、ヴァラナシへ近いうち、旅立つことに決めた。 7 インド(続) ―  ヴァラナシ(ベナレスとも言う)はヒンドゥー教徒の聖地だ。ガンジス川で沐浴する人たちを見ることができる。ガート(階段状の親水施設)に着くとこの川はどす黒く濁っているのがよくわかる。川の中央に牛の死体が漂い、岸辺には半分腐敗した牛がプカプカ浮いている。その近くで老若男女が川に足を浸けたり、歯ブラシで歯を磨いたり、肩までザブッと浸かったりしている。幼い時からこういった環境に慣れ、風習に倣っておれば、抗体ができるであろうが、私はこの光景を見て川に近づくのもためらってしまった。 e7ea0b3d-539c-4aaf-80ab-d3d675188de5ヴァラナシ ガンジス川で沐浴する人々  私が宿泊したところは安ホテルで、そこにも日本人がいた。すぐに親しくなって、2、3日後、彼は映画を一緒に見に行かないかと尋ねる。「言葉がわからなくても楽しめるよ。インドの映画は踊りと歌がほとんどだ」と。一度行くと病みつきになる。面白くて3、4回は見に行った。現在ではハリウッドならぬボリウッドと名が知られるようになったが、当時も今と変わらず、歌と踊りの娯楽映画と言って差し支えないだろう。 「明日、サルナートに旅立つよ。サルナートはここから北へ10キロ程行ったところ。そこでお釈迦さんが初転法輪をしたんだ」と先の日本人が言う。 「初転法輪?」 「釈尊が初めて仏教の教義を人びとに説いたのをそのように言うんだ。サルナートは鹿野苑とも言われてる」 「へえ、詳しいんだね」 「ガイドブックにそう書いてある」と彼は笑いこけて、「一緒に来る?」と誘う。 「いや、遠慮するよ。からだの調子がいまいちなんだ」  彼は翌日、別れの挨拶をして旅立った。  インドの5月下旬はまだ暑い。日中の気温は40度を超えている。ホテルでは料理ができない。外食はと言うと辛いものが殆どで辛くないものを探すのが大変だ。熱暑で神経には障るし、又、食べなければ衰弱の一途を辿る。ネパール以来の下痢が再発し、私は一時、クリシュナ寺院に身を寄せた。食べ物はタダ。カレーが出てくると日本のカレーの色とは程遠い灰色だ。辛子が相当効いているので辛くて半分はいつも残す羽目になる。その後は下痢。正露丸の粒の数が日増しに多くなってゆく。6、7錠辺りになると今度は便秘でからだの調子がおかしい。3日後、再び、酷い下痢に見舞われる。こういった状態が続いたので、ゆっくりとした療養もかなわず、次の目的地、アグラへと旅支度を始めた。 8 インド(続) ―  北インドに位置するアグラに早朝到着。旅の途中で出会った旅行者から必ず見たほうがいいと言われていたのがタージマハルというお墓だ。  大楼門をくぐり抜けると庭園と泉池を有した総大理石の建物が真正面に見える。一見すると宮殿と見間違えするほどの美しい白亜のこの墓廟に魅了されるが、シャー・ジャハーンというムガール帝国の皇帝が愛妃ムムターズ・マハルを偲んで造らしたもの。この妃は夫と戦場に赴いて14人目の子どもを産み、その後、経過が思わしくなく36歳で他界したが、その時の遺言に「私のために世界で一番綺麗なお墓を造って下さい」と。その後、22年という長い年月を掛けて完成をみたのがこのタージマハルだ。 ce7c3161-d2fd-4418-9919-595dd3d39da8タージマハル - 宮殿ではなく実は、霊廟  タージマハルに近づいて壁を見るとレリーフや象嵌細工がかなり凝ったものであることがわかる。これらアラベスク模様を眺めているとインド人が英語で話し掛けてきた。 「今、映画のロケ中なのだけど、ツーリスト役を頼んでもいいかい?」 「映画の撮影? オッケー」と別に断る理由も見つからないので、引き受ける。 「オッケーだね。じゃあ、建物の中に入ろう」  内部はというと外側の壁で見たようにあらゆるところにアラベスクが施してある。彼は私を二つの棺の前に連れて行って説明する。 「俳優が74歳の皇帝ジャハーンの役を、女優が妃のマハルを演じる。ジャハーンは1666年に亡くなったのだけど、妻のマハルに会いに来る」 「1666年に?」と私は首を傾げた。 「そうだ。アグラ城からやってくるんだけど、君は妃の姿は見えないし、会話があっても気付かないというふうに演技して欲しいんだ。皇帝ジャハーンは息子によってアグラ城内に7年間、幽閉された。妻恋しさに死後、ここにやって来るんだよ」と彼は言い足す。  夢物語にしては滑稽だと思うが、一応、ストーリーは呑み込めた。スタッフが入れ替わり立ち代わり傍らを往来する。照明が設置され、映像カメラマンやマイク持ちも近くにやってくる。 「アクション!」と屋内に響く声。  私は急に緊張する羽目になる。そうするとどこからともなく、可愛い系の美人と言うのであろうか、純粋無垢という感じの女性が現れ出る。彼女は小さいほうの棺の前に立って誰かを待っている様子。私は近くを通り過ぎるが彼女は気付かない。暫くして白髪の紳士然とした老人が現れる。彼は大きいほうの棺の前まできて、はたと歩みを止める。 「カット!」と大きな声。  先ほど私を誘導した彼が再び、やってきた。 「ありがとう。撮影はうまく行ったよ」  もう終わったのかとあっけにとられたが、ともかくほっとして出入り口を見遣ると観光客が相も変わらず忙しく行き来しているし、ロケのスタッフもいつの間にか消え失せていた。  私はその日のうちにイスラム教国、パキスタンへと急いで向かうのだった。 9 パキスタン — 私はインドで買ったゆったり加減のクルタパジャマ(注)を着込み、髪の毛は伸び放題、顎髭ボーボー、サンダル姿という出で立ちで颯爽とパキスタン入りした。 鉄道でラホール駅に降り立った私はお目当ての安宿を見つけ、宿主は愛想がよいので先ずはひと安心。その後、ラホール博物館へと足を運んだ。この博物館には落ち窪んだ眼、血管やあばら骨までくっきりと見える仏陀苦行像(Fasting Buddha)があり、写真で見るのとは大違い、まるで生きているかのような芸術作品で、一見の価値がある。又、パキスタンはインダス文明の発祥の地だが、モヘンジョダロの遺跡は列車で10時間かかるという理由で、又、仏塔・仏寺の遺構が数多く見られるガンダーラの都市遺跡タキシラ(タクシラ)は近くを通ったものの体調が芳しくなかったので行けなかったのが悔やまれる。 6d7ba91e-1116-46e5-9679-6cf81a59c975ラホール市 ― 向こう正面にモスクが見える 人に誘われて行ったので、どこの町だったか、何という湖だったかどうしても思い出せないが、同じ宿で出会った総勢5人の日本人と海抜二千メートル前後の山岳湖を見に出掛けた。着くと周囲の山肌がむき出しになっていてゴロゴロとした地面もさることながら原始時代に戻ったみたいだ。そんなところに円形のこじんまりとした湖があって、これが火口湖と呼ばれるもの。水が湖底から湧き出ているらしく水が溢れて、湖岸から流れ落ちている。湖の中を覗くとその透明さに思わず息を呑んだ。 「魚はいるんだろうか」と言って、私は中を覗く。少なくとも5メートル先まで見える。 「見えないねぇ」と同行の一人。 「泳ごうか」 「水を汚すよ」と冗談半分。 「そんなアホな。湖水が溢れ出ているよ」 それで、みんなで泳ごうとなって、パンツ一丁になる。 「私は離れて見ているわ」と紅一点の女の子はそう言って遠ざかってしまった。 この太古の昔を思わせる周りの景色を眺めているとネッシーが現れそうな気がしたが、私たちは短い遊泳時間を十分に楽しんだ。 夕方、ペシャワール行きの列車のチケットを購入するために駅へと向かった。インドでもそうだったが、鉄道職員は英語が堪能だ。外国人観光客を誘致するために力を注いでいると思われる。私はいつも2等車の乗客であるが、1等車も3等車もある。3等車は「スリ・盗難に注意」とよく耳にするが、2等車は庶民的な雰囲気があって落ち着く。私は当時ヒッピー然としていたので地元のパキスタン人のほうが私を怪しんだというのが実情だろう。それはともかく、この国は女性一人で旅をするのは危険極まる。それが証拠に私はインドでアメリカ人女性から当地に同伴を請われた。 * クルタは、パキスタンから北インドにかけて着用される男性用の伝統的な上着。細目の立襟、長袖、太ももから膝くらいの長さが特徴。ゆったりとしたシルエットで、風通しがよく、快適に着られる。パンツと合わせてクルタ・パジャマと呼ばれ、日本のパジャマの語源になったと言われる。 10 パキスタン(続) ー  ペシャワールに着いて、新市街にあるグリーンホテルという宿屋に泊まった。別にホテルの宣伝をしているわけではないが、半世紀前の宿泊なので、今でも存続しているのかどうかわからない。  ペシャワールと言えば、東西文化融合のガンダーラ美術を思い起こす。高校の歴史の本に出てくる、カニシカ王の治世で隆盛した。ここにあるペシャワール博物館では「鬼子母神像」が見応えがあった。今まで他人の子供をさらっていたが、釈迦により子供を奪われて苦しむ親の気持ちを知り、我が子も他人の子も愛すようになった子供の守護神だ。単純に「どうして他の母親の気持ちがわからなかったのだろう」と考えてしまうが、彼女の盲点が却って、守護神となる機会を与えたのだろう。  旧市街のキッサ・カワニ・バザールが面白い。お茶屋、金物屋、ジュエリー屋、両替屋、野菜市場など、様々な店が軒を連ね、まるで迷路のようになっている。  このペシャワールから遠くないところにカイバル峠がある。標高1000メートルそこそこあるが、紀元前4世紀にアレキサンダー(アレクサンドロス)大王が通ったところだ。この両隣りには4000メートル級、5000メートル級の山々が連なり、これらを越えて侵略するには空気が希薄(酸素不足)で、その上、武器・食料の運搬には重すぎて適していないのは自明の理。又、私たちに馴染み深い玄奘三蔵もこの峠を越えているが、孫悟空・猪八戒・沙悟浄が登場する60年代のアニメ映画(東映)が懐かしい。 d96a9053-780b-4a78-ba50-e1481d97f6afカイバル峠 (カイバ―峠、ハイバル峠 とも表記)  アフガニスタンの首都カブールへ出発するバスを待っていると一人の若いアジア人顔の男性が私に気付いて近づいてくる。私がアジア人だから親近感を覚えるのだろうか。彼は英語が殆ど話せなかったが、モンゴル人であると言う。私は今までいろいろな国籍の人と出会ってきたが、モンゴル人と喋るのは初めてだ。 「アイ・アム・ジャパニーズ」と自己紹介したが、彼は日本という国を知らない。 「どこへ行く?」と彼は尋ねてくる。 「カブールへ」 「おいらは国境まで」  同じバスに乗り込んでちょっくら喋り、彼は国境で降りた。車窓から目で彼を追ってゆくと、境界線と思われるところを何のためらいもなくひょこひょこと通り抜けてゆく。本当に国境があるのかと私は疑ってしまったが、検問が厳しくなるのは、3年後のソ連のアフガニスタン侵攻からであった。
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