70人が本棚に入れています
本棚に追加
第3章 8月-電話
決行の日は、夏休み明け最初の金曜日にした。
その日、高志は喉をせり上がってくる緊張感を抑え、努めて毎日のルーティンのとおりに動いた。
希美には、今日は一緒に食事には行けないことをあらかじめ伝えていた。終業後、一人で会社を後にすると、電車で帰宅する。外食する気になれず、部屋に帰る前に少し離れた場所にあるスーパーに寄る。まだ料理と呼べるものを作ることはできないが、肉の焼き方だけは母親に教えられていた。鶏肉と適当なサラダ、それからアルコールを購入する。
気付けば浅く速くなっている呼吸をその度に落ち着けながら、家に帰って着替え、それから買った鶏肉を塩胡椒で焼く。殊更に時間をかけて丁寧にやった。まだ電話するには時間が早かった。湯を沸かしてインスタントの味噌汁を作る。買い置きのレトルトのご飯をレンジで温める。
両面に火が通って脂の出た鶏肉を皿に移し、他のものと一緒にローテーブルに運ぶ。胃の辺りに緊張からくる圧迫感があり、食欲はなかったが、機械的に口に運んだ。食べ終わるまで時間がかかるくらいでちょうど良かった。少し緊張が和らぐかと思い、チューハイの缶も開けた。
昨日までは待ちきれないと思っていたのに、いざ今日を迎えると、ネガティブな想像がどんどんと湧いて出てくる。もしすぐに切られたら。もし話したくないと言われたら。もし、もう自分が茂にとって何の興味も持てない存在となっていたら。
そしていつものように自分に言い聞かせる。悪い結果なら悪い結果で、それを明らかにすることで前に進むことができる。どんなことになっても、それを受け止めるしかない。期待だけをずるずる持ち続けるよりはいい。
そうやって、21時になるのをひたすら高志は待った。21時に電話しようと決めていた。家には帰っているであろう時間で、まだ寝ていないであろう時間。何もせずに待っていると驚くほど時間が進まなかったが、何かをしようと思っても手につかず、ただベッドの上で天井を見上げながら、高志は時間を待った。ぼんやりと大学時代の茂のことを思い出していた。そして、この不安の先に良い結果が待っていることを信じようとした。
寝ころんだまま、左腕を上げる。目の前にある腕時計の短針は9を指している。そのままヘッドボードで充電していたスマホを手に取ると、やはり画面には「21:01」と表示されていた。高志はアドレス帳アプリの中から茂の新しい番号を呼び出した。
発信ボタンを押すのに、少しの思い切りが必要だった。数秒躊躇った後、どうにでもなれと思いながらタッチし、そのまま耳に当てる。機械的な短音が何度か続くのを聞いていたが、呼び出し音に切り替わった瞬間に、高志の体は勝手に起き上がっていた。鳴り続ける呼び出し音を聞く。出るだろうか。出ないだろうか。出るだろうか――
何度目かのコールで、相手が電話に出た。
『――もしもし』
茂の声だった。
「――」
その瞬間、頭が真っ白になる。しばらく声が出なかった。その長すぎる無言が茂に不信感を与える前に、高志は何とか言葉を絞り出した。
「……細谷」
呼び掛ける。後の言葉が続かない。生まれる沈黙がひどく長いもののように思え、また焦りを感じた。このままでは切られてしまう。早く何かもっと話さなければ。何か。
『……藤代?』
その瞬間、高志は息を呑む。
懐かしい声が、確かに今、自分の名を呼んだ。
「――」
『え? 藤代?』
電話口の向こうから、戸惑ったような、能天気なような、茂の声が聞こえる。高志は一つ深呼吸すると、その呼び掛けに答えた。
「……うん。俺」
『……』
「ごめん。いきなり電話して」
『いや……いいけど』
「今、少しだけ話してもいいか」
『え、うん』
「もし」
話したくなければ、このまま切ってくれ。用意していた言葉を、高志は飲み込む。たとえ本当は話したくないと思っていたとしても、茂がそうしないのは分かっていた。だから言う意味もなかった。
最初のコメントを投稿しよう!