ジャスミン

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ジャスミン

 それは、まだひそやかな花がほころぶ前の、誰も知らない春のことだ。  午前中の遅い朝食を終え、これからなにをしようかと、所在なく部屋に戻った時だった。  下の玄関口で賑やかな声がする。母親と皐月の声だ。  夏生が部屋を出て見下ろすと、三和土(たたき)に真新しい制服を着た皐月が立っていた。  階段を降りていく。母親が楽しげに振り返った。 「夏生、さっちゃんのところも制服、来たんだって」  履きつぶしたスニーカーとの取り合わせがちぐはぐだったが、そんなことも気にせず、皐月は袖口をつまみ、得意げに腕を広げて見せた。 「それって入学式まで着ちゃ、いけないんじゃ」 「ちょっとぐらい、いいって。一応パーカーも着てきたし」  おばさん、上がるね、と言ってスニーカーを脱ぐと、皐月は風のように夏生を通り越し、階段を昇っていった。物心つくかどうかの頃からの付き合いとなると、勝手もよくわかっている。夏生も後をついて上がった。  夏生の部屋の、定位置に腰を落ち着けると、皐月は笑った。 「見せびらかしに来ちゃった」 「ちょっとデカすぎない?」 「大きめに作ったほうがいいって、店の人が言うから」  細身の皐月にしては、袖も身ごろもかなりゆとりがある。 「夏生はいつ?」 「おととい取りに行った」 「それにしても、高校かあ。俺、がんばった。また夏生と一緒になれたし。がんばった甲斐、あった」 「そうだな。……試験の後、皐月半泣きだった」 「や、もう。英語の最初の単語で赤がわかんなくなった時は、まじで焦った」 「緊張しすぎ」 「緊張した。でも終わったー」  漫画読も、と切り替え早く、皐月は本棚に手を伸ばした。  白いシャツの襟から首すじがのぞく。不釣り合いな幅の袖口からほっそりとした手首が見え、軽々とその指を本の背にかけた。 「……なに?」  皐月が振り返った。 「いや……制服汚れないかと思って」 「……やっぱそう思う?」 「うん」 「そうかあ、もっと着てたかったんだけどなあ」 「着替えて、また来れば?」 「そうする」  皐月はさっと立ち上がり部屋を出ると、足音も軽く玄関へと降りていった。おばさん、また来るね、と奥へ声を投げ、階段上の夏生に手を上げた。  玄関の扉がゆっくりと閉まる。部屋を見ると脱ぎ捨てられたパーカーが落ちていた。 「あいつ、なにしに来たんだ」  夏生は部屋の戸口に立ち、笑いながら皐月がいた場所を見ていた。 「……ずっと一緒にいれたらな」  夏生は自分でそう口にしたことに気づかなかった。  ふくらみはじめている、蕾があることも。
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