樹の事情

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樹の事情

 樹と事故ってから三ヶ月が経った。季節は秋から冬に移って、俺の生活は受験の追い込み一色になっていた。  放課後。俺が職員室のドアを開けたとたん、廊下で待ってくれていた樹が傍に寄ってきた。 「何話してたんだ」 「志望大変えるって話」  三年に上がってすぐに提出した進路希望調査書には、第一志望に隣県の国立の名前を書いていたのだけど。やめた。 「どこにするんだ」 「――管理栄養士の資格が取れるとこ」 「大学名も教えろよ」 「嫌だね、秘密。――お前は良いよな。受験終わってて」  樹は指定校推薦を受けて、K大(都内の有名私立大)に行くことが決まっている。学部までは教えてもらっていないけど、理工学部か薬学部のどちらかだろう。家業を継ぐんだろうから。ていうか、K大に行くなら、なんでこの高校に二年に上がるタイミングで編入してきたんだろう。樹はもともと、隣県にあるK大の附属高校に通っていたんだ。そこは家柄の良いαしか入れない男子校だった。仲良くなってすぐのときに、編入してきた理由を聞いたけど、教えてもらえなかった。女目当てか、Ω目当てかな? なんて俺は憶測していたけど、この二年弱、樹は校内の誰とも付き合ったことがなかった。俺の知る限りでは。  俺たちはいつものように(そうだ、いつも、だ)一緒に帰って、俺のアパートがある方向に歩いた。途中、いつものスーパーに寄って買い物をする。 「今日はシチューにする」  そういって、俺はカゴの中に鶏もも肉、ジャガイモ、人参を入れていった。玉ねぎは家にあるから良い。デザートにリンゴを一個。  買い物中、樹は俺の隣を無言で歩いていた。俺が志望大の名前を教えなかったからご不満なんだろう。 「俺、リンゴはあんまり」  樹がぼそっとつぶやく。  まあ、好きそうには見えないわな。でも、半分は食べてもらうつもりだ。  どうせ、嫌々でも食べてくれるんだ。俺が樹の口元まで運んでやればさ。  この三ヶ月、ずっとそうだった。  樹は、平日は毎日のように俺の家に寄って、夕飯を食べて帰っていく。餌付けしちゃったんだろうな。俺の飯が美味しいから。嬉しいな。こういうのは。  俺は樹のおかげで、他人に料理を作る喜びを知ったんだ。だから進路も変えることにした。三年に上がったばかりのときは、将来のビジョンなんて何もなくて、とりあえず学費の負担が少ない国公立の大学に進学しようと思っていた。学部にこだわりもなかった。文系で自分が入れそうなところなら、どこでも。今は違う。食を扱う仕事に就きたいから、管理栄養士の資格が取れる大学に行きたい。それで大学生の間に飲食系のバイトをして調理師免許も取ろうと思う。  自宅に帰り着いたら、二人で洗面所に直行して、手洗いうがいを済ます。次に樹が、部屋の換気を始めた。キッチンと俺の部屋の窓を開けてくれる。流れるような動きだ。  俺は制服から私服に着替えてエプロンを着けたあと、キッチンに立って料理を始めた。  まな板に鶏肉を置く。皮を上にして指で引っ張り上げると、透明な膜が見える。毎回俺はいちいち見るんだ。綺麗だから。そこに包丁を当てると、簡単に皮が剥がれる。目立つ脂肪も削ぐ。一口大に切って、塩コショウを振って、少し置いておく。剥がした皮は、予め作っておいた特製ダレに浸けておく。次に、まな板と包丁を変えて、野菜を均等に切っていく。玉ねぎは涙が出るから最後だ。下ごしらえを終えて、鍋に具材を入れていって、焦げないようにシリコンターナーで底をすくい上げるようにして炒める。具材が踊って浮き上がる。ジュウジュウと肉の焼ける音がする。 「いい匂い」  食欲をそられる匂いだ。炒めるだけでも美味しそうなのに、更に煮詰めて肉と野菜のエキスを凝縮させて、更に旨味を濃縮させた完成品――シチューのルー――を投入する。シチューって贅沢な料理だよな。カレーもだけど。  仕上げに牛乳を入れて、弱火で五分から十分煮込む。  俺はなんとなく後ろを見た。相変わらず、体をはみ出させて椅子に座っている樹に、笑いそうになる。そのうち椅子の脚がバキッと折れてしまうかもしれない。  そういえば、この椅子は親父用だったんだよな。いつか来るかもって思ってたんだけど、結局一度も来なかった。俺が一人暮らしを始めてから今までずっと。  でももういい。生存確認はできたばかりだ。昨日、親父の携帯に電話して、進路について話したのだ。管理栄養士の資格が取れる国立の四大に行きたいって。親父は賛成してくれた。試験の費用や入学金、学費も払うと約束してくれた。金を渋るような口調じゃなかったから、儲けているのかもしれない。もしくはちゃんと貯めていたか。  ちょうど良いトロミが付いたところで、シチューの鍋の火を止めた。  皿によそって、テーブルに持っていく。樹の方に置く。 「うまそう」  湯気が立つシチューを見ながら樹が言う。素直な笑顔だ。ここ最近はよく見る。 「だろ? 先食べてな」 「待ってる」  スプーンを持ちながら言うもんだから、俺は笑いそうになる。 「じゃあちょっと待ってて。鳥皮の焼き鳥も食べるだろ?」 「食べる」  即答だ。樹は焼き鳥が好きだから。  オーブンレンジのグリル機能で焼く。出来上がりを待つ間に、俺たちはシチューを食べた。あと、ご飯も。  樹はハイペースでシチューを平らげた。 「お手伝いさんのシチューより美味しかった」  満足そうな顔をして、樹が感想を述べた。嬉しいけど、ちょっと引き合いに出されたお手伝いさんが哀れになる。お手伝いさんはプロなんだし、料理が下手ってわけじゃないだろう。多分、樹の舌が、俺の料理に慣れ親しんでいるんだ。火加減とか、味付けとかに。  まあでも、今日のシチューは成功だった。 「とくにジャガイモが当たりだったな」  ホクホクしていたし、ジャガイモそのものの甘さが堪能できた。買ってよかった。 「そうだな。具のなかで一番美味しかった」  樹も同意してくれる。味覚がだいぶ近寄ってきた感じ。美味しいものを美味しいって言い合えるのは至福だ。  自然と顔に笑みが浮かぶ。 「樹って、俺が料理している間、何してんの?」  毎回、俺の手伝いをするでもなく(別に良いけど)、テーブルの椅子に座って料理が出てくるのを待っている。その時にスマホは弄っていない。 「何もしてない」 「あ、そ」  ぼんやりしているのか。それとも考え事か。 「じゃあ、土日は? 受験終わったら暇なんじゃないの」  なんとなく聞いてみた。俺は土日、受験勉強だ。高校に入ってすぐの頃からずっとファミレスでキッチンのバイトをしてたんだけど、さすがにこのままの成績じゃヤバいと思って、三年の夏休み前に辞めたのだ。  あれ、返事が遅い、と思って、俺は樹の顔を見た。目が合う。さっきまで見せてくれた笑顔は消えていた。 「言いたくないなら別に」  そこまで俺が言ったところで、樹が被せるように声を発した。 「Ωを抱いてる。毎週」  淡々とした声で紡がれた言葉は、すぐに頭に入ってこなかった。たった今まで和気あいあいとしていたのに、急に空気が冷え込んだ。俺のテンションも、なんか。 「――ええと、それって、付き合ってる人がいるってこと?」  それなら喜ばしいことなんだけど。違うんだろうな。樹の顔は感情を引き抜かれたみたいに冷淡だ。見ているこっちがゾッとするほどに。 「違う。付き合ってる奴なんていない。いつも相手は違う。兄貴がヒートのΩを見繕って俺に提供してくれる」  俺はすぐに返事ができなかった。口の中が急速に乾いていって、喉が詰まったみたいに苦しい。手元にあったグラスの水を飲んだ。 「後腐れのないΩだけ選んでくれるから、俺も助かってる」  そんなことを言いながらも、樹の表情は冴えない。納得できていないような顔だ。 「特定の相手を作りたくないのか。お前だったら、言い寄ってくるΩがいっぱい――」 「好きになれないんだから仕方ないだろ。だからといって、性欲溜めたままだと、通りがかりのΩを襲うかもしれないって親も兄貴も心配して、金を払ってΩを俺に充てがってくる」  それって買春だ、と思ったけど、口には出さない。 「あ――そういうの、いつからしてんの?」  樹がいつも冷めた態度だったのは、この事が原因としてあるのかもしれない。そんな予感がした。 「高二から。今の高校に入るための条件だった。定期的にΩを抱いて共学に備えろって」  なるほど。高一のときは、αだけの男子校に通っていたから、Ωのヒートに触発される可能性はゼロだったんだ。だけど、今はΩの男女がいる共学だから――。 「なんで樹は、転入してきたんだ? どうせK大に行くのに」  素朴な疑問を口にする。俺の通う公立高校に、K大附属に勝っている何かがあるとは思えない。偏差値だってK大のほうが良かったはず。 「――会いたい人がいたから」  樹がボソリと呟いた。俺から目を逸して。 「そっか――まあ、その、あんまり気にしないほうが良いんじゃないの。毎週発情期セックスできるってことだし――相手も望んでるんなら、Win-Win……」  突然、俺の声がかき消えた。樹がテーブルを両手で叩いたからだ。シチューの皿とスプーンが、一瞬浮いて、甲高い音が響く。  咄嗟に樹の顔を見た。眉は釣り上がり、目からは強い光を放っていた。唇は震えていた。  マズった、と思った。間違えた。俺は樹の逆鱗に触れることを言ったんだ。  確かにデリカシーのないことを言った。樹は好きでΩを抱いているわけじゃないのに。  樹がいきなり席から立ち上がった。そのまま玄関のドアまで、突進する勢いで歩いていく。俺は慌てて追いかけた。 「ごめん、樹――」  謝罪の言葉を口に乗せるも、樹は聞く耳を持たない。振り返らずに、三和土にあった靴を履いて、玄関のドアノブを握る。 「樹――ごめんって。なにかフォローの言葉を言わなきゃって、俺、焦って。ごめん」  本心じゃなかった。前から樹が屈託を抱えていたことはわかっていたのに。 「酷いこといった。ごめん」  頭を下げて本気で謝った。  ドアが開く音はまだ聞こえてこない。顔を上げると、樹が俺の方を向いていた。ドアノブに手を置いたまま。 「別に、酷いことは言ってないだろ」 「じゃあ、なんで怒ってんだよ」 「怒ってねえよ」  急に激したように、荒んだ声を出す。これで怒ってないって――。 「じゃあ、何なんだよ」 「ちょっとはショック受けろよ!」  怒りを叩きつけるように、樹が叫んだ。さらに睨みつけてくる。俺はすぐに反応できない。  樹はため息を一つ吐いて、玄関から外に出ていった。  バタン、とドアが閉まっても、俺の体は動かない。  ただただ、樹の最後に見せた表情を思い浮かべることしかできない。  睨んできたけれども。だけど、それは怒りの表情というより――。  傷ついた顔だった。やりきれないような、苦しみを抱えたような表情だった。  もしかしたら、相手が俺だから、言ってくれたのかもしれない。毎週、金を出して、兄貴に充てがわれたΩを抱いているって。愛情のないセックスをしているって。  なのに俺は、おちゃらけた事を言って、お茶を濁そうとした。最低だ。  ドアの向こうに人の気配はない。帰ったのだろう、家に。でも、ドアの鍵を閉める気にはならない。部屋の中を見回す。と、ダイニングテーブルの脚の近くに、樹のスポーツバッグが置いてある。忘れていったのだ。 「どうすんの……」  俺は途方に暮れた。明日の朝、あいつのカバンも学校に持っていけばいいだけの話なんだろうけど――このまま樹を放っておくのは、ちょっと。  自分のカバンに入れっぱなしだったスマホを取り出して、樹に電話をかける。ワンコールでは出ない。想定内だった。辛抱強く呼び出し音を聞き続けていると、二十一回目でようやく、樹が出てくれた。 「カバン忘れてる」 「ああ」  冷たい声で一言だけ。 「リンゴ食べるのも忘れてる」 「食べたくない」 「悪かったって。なんか色々鬱憤が溜まってるんだろ。家も嫌なら――とりあえず今日は、俺のうちに泊まれよ」  自分からこんな言葉が出てくるようになるとはな、と苦笑した。  十秒待ったあたりで、樹が「泊まる」と言った。まだ機嫌の悪そうな声で。でも泊まるんだな。  俺はちょっと笑いそうになりながら、「待ってる」と返事をした。
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