ラット

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ラット

 俺と樹が手コキ仲間になって二ヶ月が経った。  洗面所の鏡を見ながら、髪型を整えていると、横から樹の手が伸びてくる。 「ネクタイ緩んでる」  キュッとネクタイの結び目を締められる。 「サンキュー」  背伸びをして、樹の頭を軽く撫でると、ぐいっと腰を引き寄せられてキスされる。唇に。  俺はいちいち怒らない。こんな慌ただしい朝でも。  馴れ合いまくってるんだ、俺たちは。  この二ヶ月で、俺たちの距離は縮まりまくった。十二月半ばの週から、樹は金曜日と土曜日に泊まるようになって、冬休み入ったら、俺の部屋から帰らなくなった。それからずっと樹はここにいる。  俺の部屋には樹の私物が増えた。洗面所には樹の洗顔フォーム、歯ブラシ、歯磨き粉が置いてある。たまに使うシェービングフォームとカミソリも。  今日は一月末日。三年の授業最終日。二月からは自宅学習になる。次に学校に行くのは、卒業式前日(式の予行練習がある)と、当日の二日間だけ。  樹以外の友達とは、あまり教室で会えなくなっていた。  一月に入ったとたん、学校に来る生徒がめっきり減ったのだ。クラスメイトの半数は、去年の十二月までに進学先を確定させていて、登校しているのは俺みたいに国公立受験者向けの共通テスト対策コースを受けるためか、家にいても暇で教室に自習しにくるかのどちらかだ。樹は後者だ。 「今日はみんな来るかもな」  俺が言うと、樹が「ああ」と生返事をする。どうでも良さそうな顔。  キッチンに移動し、俺はエプロンを着けて卵とベーコンで一品作る。樹はトースターに食パンをセットして焼く。一応役割分担がある。泊まりじゃなく同居になっているのだ。樹にも家事をやらせないとな。  今日はカリカリベーコンとスクランブルエッグにする。フライパンに油を熱して、薄切りのベーコンをじっくり焼く。その間に、ボウルに卵を二つ割り入れて、菜箸で大雑把にかき回して、パルメザンチーズを多めに振りかけて、また軽く混ぜる。かき混ぜ過ぎないのがポイント。  揚げ焼きしたベーコンを皿に載せて、油が残っているフライパンに卵液を流し入れる。ジュワッと音がして、すぐに卵がプツプツ言い出す。菜箸でかき混ぜて、半熟になったあたりでコンロの火を止めた。 「できた。食べよ」  昨日の夕飯の残りのレタスを深皿に盛って、シーザーサラダドレッシングをかけてから、テーブルに持っていく。その後にカリカリベーコンとスクランブルエッグを載せた皿を置く。  樹は先に座っていて、トーストした二枚の食パンに、マーガリンを塗っていた。あと、マグカップ二つに牛乳を入れておいてくれた。  樹が手伝ってくれると助かる。でも、そろそろ一度は帰ったほうが良いんじゃないのか。親は心配しないのか。お兄さんも。 「お前、いつまでここにいるの」  一応尋ねてみる。 「決めてない」 「あのなあ」 「迷惑か」  急に真面目な顔になって、樹が俺を見つめてくる。その目には不安が見え隠れしていて、俺は話すのが億劫になる。 「まあ、いてもいいけどさ。好きなだけ」  でも限度はある。俺はこの部屋を三月一杯で引き払う予定だった。大学に受かったら引っ越すからだ。まだ樹には言っていない。言いづらくて。 「あ、でも、二月二十四日と二十五日は泊められない。俺が家空けるから」 「試験だろ」 「そう」  二十五日は試験当日。前日に新幹線で試験会場に向かって、近くのホテルに泊まる予定だ。  樹も勘付いていると思う。俺が遠くの大学を志望してるってことは。管理栄養士の資格が取れる国立大学は限られていて、パンフレットを取り寄せた中で、受けたいカリキュラムがあったのはY県立大だけだった。 「もし落ちたらどうする?」  樹が嫌なことを聞いてくる。俺は絶対受かるつもりでいるけどな。 「もし落ちたら、就職するかな。飲食店の店長候補とか」  適当に答えて、俺はスクランブルエッグを口にした。表面はふわっとした焼き加減なのに、中は半熟でしっとりしている。粉チーズの塩気も良い感じだ。  樹とこうして、一緒に飯を食べるのも、残りあと二ヶ月だ。そう思うと、寂しくなる。でも、だからといって、進路を変更するつもりもないんだ。  俺たちの関係は、ずっと続けていけるものではない。区切りをつけないと。  俺たちは喋らずに、食事に専念した。無言でも居心地が悪くなることはない。一緒にいてすごく楽だ。気を遣わなくても良いし。  食事を終えたら、樹が食器を洗って、俺が洗濯物をベランダに干す。これも朝の決まったルーチンだ。  洗濯物の内容は、俺と樹の服と下着、タオル類、あと、昨晩と今朝で汚したシーツとバスタオル。二人分の体液が染み付いた――。  今の所、樹は外でラットになったりはしていない。学校でも。性欲処理は俺との手コキぐらいだけど、どうにかなっている。本当は、定期的にΩと発情期セックスしたほうが満足度は高いんだろうけど。  二人で仲良く歯を磨いてから、家を出て学校に向かう。  登校したとたん、昇降口でいつもつるんでいた友人たちに遭遇する。久しぶり、元気だった? なんて言葉のやり取りをしながら廊下を歩いていると、違うクラスのドア前で、女の子が集まっているのが見えた。我関せずで通り過ぎる生徒もいれば、立ち止まって見ている奴もいる。  俺は気になって、歩調を緩めてそのグループをよく見てみた。一人の女子が具合が悪そうに床に座り込んでいて、それを数人の女子が心配そうに声をかけて、立たせようとしているところだった。 「αの人は離れて!」  不意にその中の一人が、険しい声を上げた。俺はハッとして、横を見る。さっきまで隣にいた樹がいない。背後を見る。いた。立ち止まっている。  樹が肩を上下させて呼吸している。顔は上気し、焦点の合わないギラついた目で、件の女子を見つめていた。はあはあ、と二メートル離れていても、生々しい息遣いが聞こえてきた。微かに歯がカチカチと鳴っている。 「樹!」  俺は慌てて一歩を踏み出した。樹目がけて直進して、彼の腕を引っ張る。でも、びくともしない。 「樹! ここを離れるんだ!」  もう一度大声で呼びかける。ピクリと樹の体が震えた。そして樹は、自分の手の甲をいきなり噛んだ。眉を寄せて――。体はその場に留まったままだ。複数の女子によって立ち上がった、Ωの姿をじっと見つめている。彼女も樹を凝視していた。二人の肩の動き、口の動きが同じリズムを刻んでいる。まるで同調しているかのように。  ヒート中のΩが、一歩、樹に近づく。それを周りの女子が慌てて止めて、引きずって歩かせようとしている。樹が彼女に一歩近づこうとする。俺はとっさに、樹の背中を羽交い締めにした。とたん、強い反発が返ってきた。樹が背中を反らしたんだ。俺を振り払おうとするかのように。これじゃあ埒が明かない、と思ったときだった。周りにいた友人が漸く事態に気がついて、俺に加勢してくれた。俺を含む男三人で、樹の体を囲い込んで、その場から引き剥がした。  保健室まで樹を連れ込んだとき、俺と友人の二人は肩で息をして、額には汗を浮かべていた。  養護教諭に事情を説明すると、とりあえず落ち着くまで、ベッドで寝かせておこうということになった。樹のスポーツバッグを開けると、抑制剤の注射器が入っていた。  養護教諭がテキパキとした所作で、樹の腕に注射した。すると徐々に、仰向けに寝ていた樹の、苦しそうな呼吸が落ち着いてくる。大量に浮いていた汗も引いてきた。 「もう大丈夫みたいね。あなた達は授業に戻って」  そう言われて、友人二人は保健室から出て行く。でも俺はここにいたかった。 「俺はもう少し、様子を見てます」  樹が目を覚ましたときに、傍にいたい。  だいぶ平常な顔になりつつある樹の顔を眺めながら、俺はついため息を吐いた。  Ωのヒートも、αのラットも、今日見たのが初めてってわけじゃない。学校でも、道端でも、公共の場でも、何度か目撃したたことはある。母親のヒートなんて数え切れないほど見てきたんだし。慣れている。そのはずなのに、樹のラットを目の当たりして、俺はショックを受けた。現実を突きつけられたような気がした。Ωとαの本能的な結びつきと、βには決して入り込めない世界観を。  なんだか落ち込んでいる。そうなってしまう自分にまたショックを受けた。  ベッド脇に佇んだまま、樹の投げ出された手に、自分のそれをそっと重ねる。さっきまでは発火したみたいに熱かったのに、今は普通の温度に戻っている。 「秋生」  静かに呼びかけられた。樹の顔を見る。彼は目を開けていた。疲労の滲んだ表情だった。 「帰りたい」  嗄(しわが)れた声で樹が言った。 「そうだな、帰ろ」  俺はわざと明るい声を作った。樹だって落ち込んでいるんだろうし。疲れてもいるだろう。早く家に帰って、休ませてあげたかった。
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