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二話 鷹野透の場合(2)
「私、今日は帰り少し遅くなるから」
会社に急ぐ毎朝の光景だ。母とこんな会話をするのも珍しいことではない。谷川夏帆子は5センチのヒールを履くと、背後の母親を振り返った。
「夏帆ちゃん、遅くなるって、どこか寄り道してから帰るの?」
実家暮らしの夏帆子は、二十四歳になった今でも母からの干渉が入る。出かける際の行き先を告げるのは子供の頃からの習慣のため、特別おかしなことだとは思わないが、素直に友達と遊びに行くと告げると誰とどこに出かけるのかをしつこく聞かれるので、小さな嘘は得意になった。
「国会図書館」
と、文化施設を答えると母は機嫌がいい。行き先は気にするものの、帰宅時間が遅くなることに頓着はしないため、本当の行き先ではなく母が好む行き先を告げるようになっていた。
「そう。楽しんでらっしゃい」
その言葉も毎度同じだ。むしろ、この言葉で送り出されないと不安になってしまうくらい体に染み込んでしまっている。
「いってきます」
と、夏帆子は家を出た。同じ会社に出勤する父は夏帆子より三十分遅く家を出る。重役出勤というわけではなく、なるべく会社では親子で顔を合わせないようにしているからだ。恥ずかしいというような理由ではなく、夏帆子が縁故入社だからだった。
いわゆる父親のコネで入社した会社ではあるが、他の社員に知れると都合が良くないということで、父とは会社での接触をなるべく避けていた。とはいえ、丸の内に社屋を構える大手総合デベロッパーのため、よほどのことがない限り、広い社内で父と顔を合わせることもない。大学を卒業し、新卒で入社してから二年になるが、社内で父を見かけたことなどなかった。
自宅から駅までは徒歩七分。急行の停まる駅だ。丸の内までは乗り換えなしで約二十分の道のりだった。電車の座席に座れることはないが、走っても足が痛くならないヒールを履いているため、それほど苦痛ではない。
「きゃっ!」
電車が少し強めのブレーキをかけた。車体がぐらついて、何人かがその場で小さくたたらを踏む。電車で出勤をしていたら日常茶飯事のことだ。それなのに、若い女性の悲鳴が上がって、夏帆子はそちらに目をやった。
「だ、大丈夫!?」
「うん、ありがとう。びっくりしたー」
どうやら、この春に大学生になった若者のようだ。満員電車に慣れていないのか、わずかの揺れに右往左往している。その初々しさに微笑ましさを感じて、車窓から流れる景色に視線を戻した。
小学校から電車通学の夏帆子にとって、満員電車は日常的なものになっていた。七歳の頃から重いランドセルを背負って、今とそう変わらないルートで学校に通っていた。おかげで受験勉強をせずにそのまま高校・大学へと持ち上がったが、彼女たちのように新しい環境になったわけではなかったので、特に新鮮味は感じなかったように思う。強いて言えば、新しい制服に変わったり制服から私服になったりという変化くらいだ。
新しい世界に飛び込むことは、内気な夏帆子には恐怖でもあった。だからこそ小中高と持ち上がりの学校だったり、縁故入社というのは怖がりの自分にはちょうど良かった。けれども、今までとは違った環境に身を置いてキャーキャー言える彼女たちが、ほんの少し羨ましくも思う。
彼女たちは大学で何を専攻しているのだろうか。自分は親から勧められるまま経済学部へ進んだが、今思えば心理学を専攻するのもよかったかもしれない。人間関係を円滑に結ぶことが苦手な分、人の心の動きを学んでいれば、もっとコミュニケーションが上手に取れる人になっていたかもしれない。
今さらこんなことを考えても仕方がないと思った時、電車は東京駅へと滑り込む。ドアが開いてホームへ降りると、そこは途端にグレーの人波で埋め尽くされた。まるで軍隊のように歩調を合わせて歩き、後ろから背中を押されるように改札を抜け、徒歩五分の会社へたどり着く。
出勤はだいたい八時四十分。始業は九時。昼休みは十二時。就業は五時という規則正しい会社だ。残業はあっても三十分程なので、終業後の予定が立てやすい。プライベートがしっかり確保されるため、働きやすかった。
仕事内容は一般事務だ。施設管理事業部という部署のため、電話とメールでの顧客対応がメインだった。特に午前中は自社が有する商用施設やオフィスビルからの電話が多く、一息つくころには昼になっている。
「谷川さん、お昼行こう」
昼食はだいたい同じメンバーで固まることが多い。ミーティング用のテーブルに昼食を持ち寄り、いつもの顔ぶれが揃ったら食べ始めるのがお決まりだ。
「あれ、林さんは?」
「今日は社食に行くって」
「えー、珍しい」
「寝坊してお弁当作れなかったし、遅刻しそうでコンビニも寄れなかったんだって」
すぐ近くで繰り広げられる会話を、夏帆子は聞いているだけだ。時々質問をされればちゃんと答えるが、それ以外は一歩引いて聞き役に徹することがほとんどだった。おそらくこの輪からこっそり抜けても、誰も気づかないのではないかと夏帆子は思うことがある。けれども、それくらいの距離が夏帆子にはちょうどよく感じられた。
時々行われるお弁当のおかず交換も、夏帆子はあまり好きではなかった。けれども、積極的に会話に入っていかないせいか、おかずをせがまれるようなことは今のところなくて安心している。母のお弁当をマイペースに食していると、フロアにプーという着信音がして、内線電話がかかってきたことを知らせた。
「私、出ます」
夏帆子は素早く立ち上がると、受話器を取った。
「はい、お待たせしました。……はい、谷川は私です」
内線は父からだった。夏帆子へ内線なぞかけてくるのは珍しく、自然と上司へ対する言葉遣いになる。一体誰への内線なのか、夏帆子の対応に耳を澄ませて聞いていた同僚たちは、自分宛ではないことに安心してまた箸を動かしだした。
「えっ、今からですか?」
用事は何なのか分からないが、今すぐ父の元へ来るようにと言いつけられる。昼休み終了まであと三十分はあるが、どういう用事なのか皆目見当がつかない。
「――はい、わかりました。失礼します」
受話器を置くと、全員の目が夏帆子に集中する。
「どうしたの?」
「都市開発事業部に呼ばれました」
「都市開発?」
「なんで、谷川さんが?」
まさか父に呼ばれたという訳にもいかず、夏帆子は広げていた弁当をそそくさと片付けると、追及をかわすためにオフィスを飛び出した。
父が部長を務める都市開発事業部は、夏帆子のいる施設管理事業部とフロアが違うため、エレベーターで上階へと昇る。四十階で降りると、父が待ち受けていた。今年で五十一歳になる父だが、会社で見るとメタボの腹回りも威厳があるように見えるから不思議だ。
「お待たせしました」
「ああ、悪いな――」
なんだか歯切れが悪い。社内で娘と言葉を交わす照れとは違うようだ。
「一体、何が……」
「とりあえず、こちらへ来てくれ」
同じフロアに並ぶ会議室へと通される。昼休みの時間帯であるため、会議室付近に社員はあまりいなかった。
「夏帆子、大変なことになったぞ」
会議室のドアを閉めるなり、父は堰を切って話し出した。
「ど、どうしたの?」
「ああ、まあ座れ」
と、夏帆子よりも自分を落ち着けるように父は言う。夏帆子が席に着くのを確認すると、父は脇に抱えていた封筒を差し出した。
「開けてみろ」
A4サイズの封筒だったが、中に何が入っているのかは見当がつかない。夏帆子が戸惑っていると、父はしびれを切らしたように中から台紙のようなものを取り出した。
「見合い写真だ」
「……お見合い?」
台紙を開いて渡された写真には、椅子に座ったスーツ姿の男性が写っていた。なんとなく雰囲気から中年だと判別できるが、顔だけを見ると幼い感じもする。けれども頭髪に白髪が混じっているから、やはり若くはないのだろう。痩せ細って背筋が曲がった自信のない男といった印象だ。
「大塚常務の息子さんだ」
「お見合いって、私が……?」
「他に誰がいるんだ」
それが父の答えだった。夏帆子に写真を見せるということは、夏帆子の見合い相手だということだろう。もちろん写真を見せられた時点で頭では理解していたが、急すぎて感情がまだついていかない。
「大塚って……」
「ああ、創業者一族だ。彼も、今総務に配属されているよ」
「この人と、結婚しないといけないの?」
「まだ見合いだよ。先日たまたま常務とそんな話になってな。お互いに年頃の子供がいるなら会わせてみるのもいいだろうって。お前、付き合っているやつはいるのか?」
「え……。いないけど」
一拍空けて夏帆子は答える。父はあくまで軽い感じで言うが、目が本気だった。仮に夏帆子が大塚家に嫁ぐことになれば、父の昇進も保障されたようなものだ。
「それならちょうどいい。随分いい話だと思わないか」
「まあ、それは……」
確かにいい話だ。父にとっては。
「お前の写真を見せたら、あちらも乗り気でな。早速、今月にでもセッティングしてくれって言われたよ」
「私の写真を!」
「お母さんが、成人式の写真を貸してくれたぞ」
母もすでに知っていたというのか。それならそれで構わないが、他でもない母娘なのだから、一言言ってくれてもよかったのにと思う。
「それなら話は進めておくからな。今夜、常務と飲む約束をしているんだ」
「そう……」
「話は終わったから、もう帰っていいぞ」
これ以上長居はするなというように、父は夏帆子を会議室から追い払った。
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