プロローグ

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プロローグ

 Presage――予感、前触れのこと。  それをワクワクすると取るか、ソワソワすると取るかは人それぞれだ。『プレサージュ』という屋号の店を開くと母親から聞いた時、似鳥航(にたどりこう)は十八歳だったが、その職種を知ってワクワクしたものだった。  四十を目前にした母は、見目麗しい様々なタイプの男性を集めて『レンタル彼氏』を始めるといった。レンタル彼氏というのはその名の通り、女性が気に入った男性をレンタルするというサービスだ。客から指名を受けている間は、その女性の彼氏として振る舞うことを求められる、いわばバーチャルな恋人だ。  とある時から母は、『男は若い女の子と遊んでも寛容な目で見られるのに、女はそういうのはいけないなんておかしい』と主張していた。そして、そういう母の言い分に、航も異論はなかった。  彼氏といっても、性的な接触は一切ない。距離が近いのは身体よりもどちらかというと心のほうだ。会った瞬間から、それまで長い付き合いだったように振る舞い、自分の大切な相手のようにその人のことを考えてあげる――その話を聞いた時、ともすれば人間関係など密接に築かなくても生きていけるような今の社会において、必要不可欠なサービスだと素直に思った。 「(こう)に今夜の指名が入ったよ、たった今」 「今夜ぁ? って、また急な」 「何か用事ある? 断ろうか?」  青山にあるオフィスビルの一角。  プレサージュに顔を出すなり、航は事務員の水野侑季(みずのゆうき)からこの後の予定を問われた。  一見するとレンタル彼氏のメンバーのように目鼻立ちの整った侑季だが、彼はれっきとした裏方のスタッフだ。 「特にないけど、何時にどこ?」 「十八時に渋谷。きっと、会社の昼休みに申し込んだんだね……」  航には目もくれず、侑季は壁の時計をチラッと見てはパソコンのモニターに視線を戻した。ちょうど正午を少し回ったところだ。十二時から昼休みになる会社だとしたら、食事にする前に申し込んだのだろう。なにか切羽詰まったものを感じる。 「当日に予約してくるお客様も珍しいな」 「そうだね。宇宙(そら)さんにはノリとか勢いで申し込むってよくあることだけど、確かに航には珍しいね」  宇宙というは航の四つ年上の同僚であり、プレサージュのムードメーカーでもある三宅宇宙(みやけそら)のことだった。本人がノリで生きているせいか、彼を好ましく思う女性もやはりノリの軽い傾向にある。そういう女性はブームの移り変わりが比較的短いので、『会いたい』気持ちがピークのうちに会えないと、すぐ他に興味が移ってしまう。  一方で、航を好む女性は慎重な人が多かった。それこそ一月前からデートの準備をして、会った時に交わす第一声を念入りに頭の中でリハーサルしているような人が多い。そのため、当日に会いたいという客になにか引っかかるものを感じたのだ。 「引き受けて大丈夫だよね」 「うん、受けちゃっていいよ」  友人のよしみで気軽に答えると、航は目を眇めて奥のミーティングスペースに人がいないことを確認した。 「俺、大学のレポートやってるから、なんかあったら教えて」 「分かった。真面目に勉強しなよ」  航が職場でレポートをこなしているのもいつものことで、侑季は片手をひらひらさせながらパソコンに意識を集中させた。 「お前がそれを言うなっての」  侑季の言葉にツッコミをいれるが、彼は事務処理に取りかかっていて聞こえていないようだった。  侑季は大学一年生まで航の同級生だった。  入学式でたまたま隣の席になり、それからなんとなく行動を共にしていたが、夏休みが明けると学校に姿を見せなくなっていた。夏休みに入る前も授業を休みがちで、他人事ながら出席日数が足りているかと心配していたものだが、大学に入学して一年が経たないうちにドロップアウトしてしまったのだ。  大学を辞めた後は、知人のつてでバイトをしていたようだった。友人関係は続いていたので、ファミレスで働くと聞けばわざわざ店に顔を出したりしていたが、不思議とどの職場も長く続いたためしがない。それを見かねた航がプレサージュに誘ったのだ。  その頃、パートの事務員が辞めて困っていたというのもあるが、この特殊な職種の事務に侑季は合っているのではないかという航の直感だった。
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