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何でもない日だった。
彼は普段より少し遅く起床し、私に笑いかけるとコーヒーを淹れようとして、おっと……とキャニスターに伸ばした手を横に滑らせて紅茶缶を取った。
「今日はこちらにしよう」
彼が振る紅茶缶はサラサラと音を立てる。
コーヒーは仕事の前のルーティンだからだろう。今日はなんでもない日だった。
いつもより遅いといってもまだ日が昇る前だ。夜明けの空が深い夜から徐々に浅瀬へ渡るように、爽やかな青へ塗り替えられていく。
ケトルは微かな音を立てて沸騰し、彼はそこへティーパックを二つ落とした。21分、手元のタイマーを操作する。今日一日分の紅茶を作ってしまうのだろう。
窓からは浜辺が見える。
何でもない日には、彼はビーチコーミングをするのが好きらしい。とは言っても海洋学者ではない彼は、自分が拾うものが何かを知らない。とにかくお世辞にも綺麗ではないような珍妙なものをニコニコと拾ってくる。そうして私に「これはなんだろう」と尋ねるのだ。
彼の両手いっぱいの何かに私が一つずつ答えると、彼は「へえ」と何度でも驚いた。
彼の知識は極端に偏っている。それで生計を立てているのだから問題はないのかもしれないが、彼の頭脳はほとんど常にフル稼働している状態だろう。
何でもない日が必要なのだ、彼には。
雲一つない空のような、風のない大気のような、空っぽの空間を、彼の中に作りたい。
私はそのためにここにいる。
それを願った誰かが、私を作ったのだ。
「私を止める必要はないでしょうに。まだ昨日の処理が残っています」
「でも、ぼくの友人は今日は休息日だって決めちゃったし」
「それは貴方の休息日であって、私には関係がありません」
耐熱グラスに注がれた紅茶が湯気を立てている。
私を内在した端末の前に、彼はグラスを置いた。上った朝日がグラスと紅茶を透き通り、白いテーブルの上に琥珀色の影を作る景色を、端末のカメラが捉えていた。
私の反論を、彼のブラウンの双眸は柔らかく弧を描いて受け止めた。
「私は貴方が休むために作られたのですが、なぜ貴方は私と一緒に働いてしまうのでしょう。
私の存在する意味が無くなってしまいます」
「あるとも。ぼくは一人で仕事しなくて済んでいる」
「貴方の代わりが私ですよ」
「二人ならば二倍働ける」
「私に休息は不要です。二倍以上働けますよ」
「ぼくには必要だ。君が休まなければ、僕は気になってしまって休めないな」
彼はニコニコと楽しそうに私の反論に答える。
「ぼくは人間だからね」
戦場のロボットに愛着を持ってしまう人間という話しがある。わざと人型とは程遠いデザインを施したのに、人間はそれにすら旧友にも相当する愛情を持ってしまうのだ。
人間だから、という彼の言葉は、軽やかな反面実に深い意味を持っていた。
人間だから。隣にいる何者へも愛を持ってしまう。自分と近いものへとその認識を変えてしまう。
「精神的な燃費の悪い生き物ですな」
「言うねえ」
彼はやはり楽しそうに笑って紅茶を啜った。窓から差し込む朝日に目を細める。海岸を見ている。
何でもない日の今日、彼はまた海から奇妙なものを私の前に持ってくるだろう。
それが彼の休息になるならば、私は自分のネットワークを駆使して彼の何かにどこまでも答えていく。私を作った誰かの願いを叶え続けていく。
いつか、私は彼の笑顔を見ていたくなる予感がした。
ただ処理を続ける私に認識と言葉を与えてしまった彼は、確かに人間だったのだ。
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